2022年 11月27日(日) 待降節第1主日・ アドヴェントT礼拝説教

 

 「主は我らの救い」
   エレミヤ書 33章 14〜16節  
 北村 智史 牧師

  先週の日曜日、11月27日から、私たちは教会の暦で言うアドヴェントの時期を過ごしています。アドヴェントというのは、「待降節」とも言いまして、文字通り主の御降誕、即ちクリスマスを待ち望むシーズンです。この時期、私たちはイエス・キリストがこの世にお生まれになったその意味を想い起こしながらクリスマスを迎える心の準備をしていきます。それでは、このイエス・キリストがこの世にお生まれになった意味とは、はたして何でしょうか。
  聖書には、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書と、イエス様の生涯が記された4つの福音書が収められていまして、そのうちのひとつ、マタイによる福音書には、イエス様の誕生について、それは「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と昔の預言者が預言していたことが成し遂げられたのだと考える信仰が告白されています。「インマヌエル」とは、ヘブライ語で『神は我々と共におられる』という意味ですが、つまり聖書はイエス・キリストがこの世にお生まれになったのは、神様が私たちを救い、私たちと苦しみも喜びも共にされるためだったのだと語っているわけです。
  このことを裏付けるように、イエス様の生涯はまさに貧しく小さくされた人々と共に歩まれた生涯でした。それは、搾取、貧困、飢餓、病気、障がい、差別、抑圧、こうした様々な苦しみが渦巻く現場へと赴いて、希望すら奪われていた人々とともに生き、闘い、ついには自らが十字架の上で犠牲となって、すべての人々の罪を背負い、お救いになられた生涯に他なりません。イエス様は自らの生涯を通して、神様は私たちが傷ついていようが、心が暗くなっていようが、自分ではどうしようもないコンプレックスを抱えていようが、たとえ希望すら見えないような絶望的な状況の中で苦しんでいようが、私たちがどのような状況に陥っていたとしても、私たち一人一人をかけがえのない大切な存在として受け入れて、決して見捨てることなく伴っていてくださる方であることを、今を生きる私たちに伝えてくれているのです。
  今日取り上げさせていただきましたテトスへの手紙2:11〜15は、その恵みを心に刻みながら、私たちがどのように生きていくのかを問うた個所に他なりません。手紙の著者は言います。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています」と。
  クリスマスの出来事とそれに続くイエス様のご生涯において神様の恵みが現れたからこそ、これに応えて私たちは「救い主である神の教えを、あらゆる点で輝か」せていかなければならない、そのようにして悪しきいっさいの業を捨てて、善い業に励みながらキリストの再臨を待ち望むべきであると著者は言います。さらに14節では、「キリストがわたしたちのために御自身を献げられた」十字架の出来事が、「わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだった」と解釈されています。
  今日の聖書個所のテーマ、それは神様の恵みに対する応答であり、クリスマスの出来事とこれに続く十字架と復活にまで至るイエス様のご生涯、その恵みを受け入れた結果として私たちはどのように生きていくのかということに他なりません。イエス・キリストをこの世に与え、その愛を現わして私たちの救いを成し遂げてくださった神様の恵みにふさわしい生活をすると共に、このことを人々に語り、勧め、戒めていくことが求められています。
  そのためにこのアドヴェントのシーズン、私たち、クリスマスの出来事とイエス様のご生涯をしっかりと確認し、心に刻み直したいと思います。イエス様のご生涯、それはまさに御自身を与え尽くされたご生涯でした。使徒言行録の20:35には、イエス様がその地上でのご生涯の中で「受けるよりは与える方が幸いである」と仰っておられたことが記されていますが、イエス様はまさにその御言葉通りに人生を歩まれたのです。そのイエス様はヨハネによる福音書15:12でこのように述べておられます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。
  このことから、私はこれまでのクリスマスシーズンで何度も、私たちが与える喜び、与える幸いに生きることを説教の中で勧めて参りました。もちろん今日も、このことを勧めたいと思っているのですが、それだけではありません。私はあえて今日、私たちが受ける幸いも蔑ろにしないように皆さんにお話ししたいと思うのです。
  なぜなら、私たちが生きているこの日本の風潮でしょうか、私たちには与えるよりも受ける方がかえって難しいと感じる場合が多々あるからです。人に迷惑をかけてはいけない。そうした風潮、そうした思いから、自分には助けが必要だと認めて、「助けてください」と言うことが難しくなってしまう、そんなことはないでしょうか。
  実際、私はこれまで教会員の方々に何か困難があった時に、「こういう風にしましょうか?」と助けを申し出たことが何度もありましたが、そのたびにやはり皆さん、遠慮されるのです。何か大きな災害があって被害を受けた方も、「迷惑をかけてはいけない」とか、「自分よりももっと被害を受けた他の方のところに」とかいった思いが強いからでしょうか、ボランティアに助けをお願いすることをためらわれる場合も多々あると聞いています。
  そのたびに思うのです。私たちはもっと素直に他の人に「助けて」と言っても良いのではないかと。他の人に迷惑をかけてはいけないとか、自分よりも大変な人のことを思って遠慮するとかいった風潮は、ある意味ではこの日本に生きている人々の美徳とも言えるものかもしれませんが、それで苦しいことを一人で抱え込んだり、我慢したりしなければならないのは辛いことです。他の人がしたいと思う愛をそのまま素直に受けることも、その人を喜ばせる大切なことではないでしょうか。愛を受けてくれる人がいなければ、愛を与える幸いにも与れないわけですから。
  どうも日本のキリスト者は与える幸いには喜んで与ろうとするけれども、受ける幸いについては辞退しようとされる方が多いような気がいたします。なのでこのクリスマスシーズン、受ける幸い、与える幸い、その両方にもっとバランスよく与っていきましょう。神様のもと、たくさん愛を受けて、愛を与えて、大きな幸せに与っていきたいと願います。
              祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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