受難節第 6主日2020年4月5日(日)  礼拝・説教要旨
 

「流される弱さ」
マタイによる福音書27章15〜26節 
北村 智史

 今日は棕梠の主日の礼拝を神様にお捧げしています。この棕梠の主日というのは、今からおよそ2000年前にイエス様が十字架の御受難を受けるためにエルサレムへと入られた、そのことを記念する日に他なりません。この時、人々は自分の服を道に敷き、手になつめやしの枝を持って「ホサナ」と叫びながらイエス様を盛大に出迎えました。「とうとう待ちに待った救い主が自分たちのところにやって来た。神様万歳。イエス様万歳」。人々はそんな思いでいっぱいだったことでしょう。しかし、それからたった5日後に、人々はイエス様を罵りながら、イエス様を十字架につけてしまうのです。その変わり身の早さ、人間の罪を思わされます。今日からイエス様のエルサレムでの御受難をお偲びしていく受難週が始まっていきますが、イースターまでのこの1週間、しっかりと私たち、己を見つめ、罪の悔い改めの内に過ごして参りたいと願います。
  さて、今日は聖書の中から、マタイによる福音書27:15〜26をお読みいただきました。逮捕されたイエス様が、ローマ総督のピラトという人から裁判を受ける場面です。ユダヤ人たちに逮捕されたイエス様は、最高法院というユダヤ人たちの議会で死刑を宣告されるんですけれども、当時誰かを死刑にするためには、最終的にローマ総督の裁断を仰がなければならなかったんですね。だから、ユダヤ人たちはイエス様を死刑にしてもらうために、イエス様を当時のローマ総督ピラトに引き渡したんです。
  「ピラト様。こいつは自分のことをユダヤ人の王様だと言って、ローマ帝国に反乱を企てました。どうか死刑にしてください」。ユダヤ人たちはピラトにこう言いました。でも、これは真っ赤な嘘です。本当は、自分たちは、イエス様が自分のことを神の子と言ったのが許せなくてイエス様を死刑にしようとしているのですが、より死刑にしてもらいやすいようにこう言ったのです。ピラトはイエス様に聞きました。「えっ、お前がユダヤ人の王だと言うのか。こんな奴が?祭司長たちは本人がそう自称しているから反逆罪で裁けと訴えてきているが、本当にそうなのか?」しかし、ピラトがどんなにイエス様に聞いても、イエス様ははっきりとはお答えになりませんでした。
  「う〜ん、どうしてもこいつがそんなことを言っているとは思えないな。そうだ、こうしよう」。ピラトは一つの案を思いつきました。実はお祭りの時には、牢屋にいる囚人を一人だけ釈放することになっていたのです。バラバ・イエスという同じ名前の死刑囚とイエス様、どちらを釈放して欲しいか皆に言わせよう。そうすれば、皆はイエス様を釈放してくれと言うに違いない。そこで、「よしよし、仕方がないな」ということでイエス様を釈放しよう。ピラトはそう考えました。
  けれども、これが失敗だったんですね。自分は総督なんだから、この人は悪くないと思ったのなら、誰が何と言おうと「この人は悪くないぞ」と言えば、そこで裁判は終わるはずだったのです。
  「どちらを釈放して欲しいか」。ピラトが聞きました。「バラバを!」群衆の誰かが叫びました。それを皮切りに、次々と声が上がりました。「バラバを!」ピラトは自分の耳を疑いました。実は自分の知らないところで、祭司長たちが皆を思い通りに操っていたのです。
  「ちょっと待て、あの救い主と言われているイエスはどうするんだ?」誰かが叫びました。「十字架につけろ!そうだ、十字架につけろ!」だんだん大きな一束の声になり、ピラトの官邸もピラトの心も揺さぶり始めました。もう止められません。「これは言う通りにしないと、どうなるか分からないぞ。」ピラトは怖くなりました。ここで失敗して暴動でも起きたら、自分は皇帝から、「お前はあのユダヤの連中を治めることもできないのか」と叱られ、出世できなくなります。おそらく左遷か失脚でしょう。どこに飛ばされるか分かりません。
  「悪いが、こいつには十字架についてもらうしかないな」。ピラトはイエス様を十字架につけることを認めて、面倒な裁判をさっさと切り上げてしまいました。こうして、ピラトは、今でも毎回の礼拝で皆に、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と唱えられるくらいの罪を犯してしまったんですね。ピラトの罪、それは流されてしまう罪です。しかし、それは決して今の私たちと無関係ではありません。今の私たちもまた、ともすればピラトのように周囲に流されて罪を犯してしまう、そんな弱さを抱えているからです。
  たとえば、いじめの現場でも、いじめっ子にどうしてそんな風にいじめるのか咎めると、「皆がやっているから。それで、自分もやらないと自分もいじめられると思ったから」などという意見をよく聞きます。その他にも、「赤信号 皆で渡れば 怖くない」じゃあないですけど、たとえ良くないこと、やっちゃあいけないことだなと分かっていても、皆がやっていれば、それに流されて自分もついついしちゃうことだって、私たちにはありますね。
  今日から始まっていく受難週の一週間、こうした私たちの罪、私たちの弱さをしっかりと悔い改めたいと思います。そして、どんなに周りがやっちゃあいけないことをしていても、またしてはいけないことをするように圧力をかけてきても、頑としてそんなことをしない、神様の御心を貫く、そんな意志の強さを身に着けたいと思います。イエス様に従って、どんな時にも神様の御心を行っていく、その決意を新たにいたしましょう。    
  お祈りをいたします。

 
 
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