2020年4月10日(金)  受難日夕礼拝・説教
 

「剣を取る者は皆、剣で滅びる」
マタイによる福音書26章47〜56節 
北村 智史

 今日は、イエス様が十字架にかけられたことを記念する受難日です。東京府中教会では2014年から、この日に夕礼拝を実施してきたのですが、今年は新型コロナウィルスによる感染症拡大の影響で、皆さんにはご自宅で祈りを共にしていただくこととなりました。まさに忍耐の日々を今、私たち、過ごしているわけですが、私たちの罪の贖いのために十字架をも背負い給うた主イエス・キリストが、この苦難の中に置いても私たちを力強く背負い、支えてくださることを信じて、乗り越えていきたいと存じます。
  さて、先程も申し上げましたように、受難日というのはイエス様が十字架にかけられたことを記念する日です。イエス様の十字架の出来事を思う時、私はイエス様を十字架につけた人間の罪の深さを思わずにはいられません。そして、そのように神様に反逆する人間の罪は、イエス様の時代からおよそ2000年が経過した現在も世界の至るところで見受けられます。その人間の罪の中で、最も深刻なものは何でしょうか。
  私は、それは神様がお造りになった命を奪うという罪だと思うのです。いったい、これまで人間は、戦争や紛争によりどれだけ多くの命を蹂躙してきたことでしょうか。命を粗末にするこうした戦争や紛争は、永遠の命の与え手である神様への最大の反逆行為に他なりません。私たちはいい加減、すべての争いをやめて主の平和をこの地に打ち建てていかなければならないのです。そのために、私たちは今、何をしなければならないのでしょうか。今日取り上げさせていただきました聖書箇所、マタイによる福音書26:47〜56はその手掛かりを与えてくれる箇所に他なりません。そういうわけですので、今日は受難日ですが、イエス様の十字架の場面ではなく、イエス様が逮捕される場面をあえて取り上げたいと思います。
  イエス様が逮捕された時、人々は剣や棒を持ってやって来ました。そして、イエス様に手をかけて、乱暴に捕らえたのです。その時、イエス様と一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落としました。
  これは、イエス様を守ろうとする弟子たちの抵抗です。武力でもってイエス様を捕らえようとする人々に、弟子たちは武力でもって応えたのです。しかし、その時にイエス様は言いました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」。
  私はここに、イエス様の偉大な教えを見て取ります。私たち人間の愚かな知恵では、「やられたらやり返せ。それが自分を守る唯一の方法だ」と教えられます。はたして、私たち人間はこれまで、「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足」(出エジプト記21:23〜24)という同態復讐法を抜け出たことがあったでしょうか。己を守るために、やられたらやり返す。復讐の法律が一つとして社会問題の解決にならないどころか、かえって人々の争いを生み出し続ける事実を前にしながら、なお人々はこの災いなる教えに従い続けてきたのです。
  しかし、イエス様は人々が自分を殺そうと逮捕してくる中で、もっと高度な法律を語られました。イエス様は「目には目を」式の古い哲学が、何一つこの世の問題を解決しないであろうことをよく知っておられたのです。イエス様は武力でもって武力を克服しようとはなさいませんでした。悪でもって悪に報いることなど、イエス様は決してなさらなかった。イエス様は、むしろ黙って自らの十字架の運命に従われたのです。その愛こそが人間の罪を覆していく、そして、真の平和を成し遂げていく、その可能性を知っておられたからです。実に、イエス様は愛によって悪を、また人間の罪を克服しようとなさいました。イエス様のこの態度から、私たちは善だけが悪を追放し、愛だけが憎悪を征服するのだという事実を学んでいかなければなりません。
  今日の聖書個所を読みまして、私は「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と仰られたイエス様のその言葉が最も印象に残りました。私はこの言葉こそ、今の私たちが平和を成し遂げるために、最も心に刻まなければならないものだと思います。
  奇しくも、昨年は11月にローマ教皇が来日し、広島、長崎を訪問され、「軍備拡張競争は貴重な資源の無駄遣い」、「武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっている。これらは途方もないテロ行為」と、核武装と軍拡の動きを厳しく批判されましたが、私たちが生きているこの世界には、「平和は武器や武力によって成し遂げられる」と本気で考える人が後を絶ちません。私たちの国日本でも、アメリカの核の傘にいることが安全保障の要だと、核に平和を頼る考え方が安全保障の基本とされています。そして、武装を強め、戦争のできる国づくりが進められています。そのようにして周りを威嚇していれば、平和が成し遂げられるのだと本気で考えられているのです。
  私たちはいい加減、気付かなければなりません。武器や武力によっては、決して平和は成し遂げられないと。それは「世界終末時計」の針を推し進めるだけだと。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」。イエス様が仰られたこの真理に、私たちは目覚めなければなりません。昨年来日した教皇フランシスコは言いました。「戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもない。それは人類とその尊厳だけでなく、私たちの『共通の家』の未来の可能性にも反する。真の平和とは、非武装の平和以外にありえない。私たちは歴史から学ぶべきだ。『戦争はもういらない!兵器の轟音はもういらない!こんな苦しみはもういらない!』と声を合わせて叫ぼう」と。
  受難日の今日、教皇フランシスコのこの呼びかけに応える思いを新たにしたいと思います。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」。イエス様のこの言葉をスローガンに、非核、非武装による平和を皆で一緒に成し遂げていきましょう。そして、キリスト者として、未来への責任をしっかりと果していきたいと願います。  ―祈り―

 
 
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