復活節第2主日2020年4月19日(日)礼拝・説教要旨
 

「傍観者には理解できない」
ペテロの手紙一1章3〜9節 
北村 智史

 先週は待ちに待ったイースターでした。今年は新型コロナウィルスの影響で、礼拝堂で皆さんと一緒にイエス様の御復活をお祝いするということはできませんでしたが、それでも、皆さん、それぞれのご自宅で祈りを共にされたことと思います。まだしばらくは会堂で礼拝を共にできない、我慢の時が続きますが、そのような中にあっても、それぞれの場で復活の主が共にいてくださっていることを信じて、祈りを合わせていきたいと願います。先週から始まった復活節のシーズンを、私たち、希望を持って過ごしていきましょう。
  さて、先週のイースターですが、私は午前中、妻と共に簡単な礼拝の時を持ち、午後からは一人で聖書の復活物語を読み返しました。イエス様の復活の出来事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのいずれの福音書にも記されているのですが、今回これらの記事を読み比べまして、特にヨハネの記事の多さに改めて驚かされた次第です。
  ここでヨハネによる福音書に収められているイエス様御復活の記事を簡単に紹介していきますと、まず20:1〜10に空の墓の記事が記されています。日曜日の朝早く、マグダラのマリアがお墓に行くと、墓から石が取りのけてあって、そのことをペトロともう一人の弟子に話し、この二人の弟子がイエス様の遺体のない空の墓を目撃するというお話です。それから、復活の主がマグダラのマリアに現れます(20:11〜18)。弟子たちはマグダラのマリアから、「わたしは主を見ました」とイエス様復活の知らせを伝えられましたが、ユダヤ人たちを恐れて戸に鍵をかけ、家の中に閉じこもっていました。ところが、そんな弟子たちの間に復活のイエス様が現れ、平和を与え、手とわき腹とをお見せになって、自分がイエス様御自身であることを確信させ、聖霊を吹きかけ、罪を赦す力をお与えになるのです(20:19〜23)。たまたまその場にいなかったトマスは、弟子たちの証言を頑なに信じようとしませんが、イエス様はその八日後、トマスの前にも現れ、再び平和を与え、手の釘跡とわき腹の傷に手を入れて確かめるように促しました。疑いのあるままに受け入れられたトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と復活のイエス様への信仰を告白します(20:24〜29)。その他にも、イエス様が7人の弟子に現れた21:1〜14のお話、イエス様がペトロに三度「わたしを愛しているか」とお尋ねになり、「わたしに従いなさい」と言われた21:15〜19のお話、イエス様が「愛する弟子」について語られた21:20〜25のお話などなど、ヨハネによる福音書は、復活のイエス様が繰り返し弟子たちのもとに現れ、平安と喜びに満たし、キリストの使者としてこの世へと送り出していく、マグダラのマリアを初めとした弟子たち一人ひとりにとっての復活体験を丹念に物語っているのです。
  こうした一連のお話の中で、私は、特にイエス様がトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたその言葉が最も印象に残りました。そして、今日の聖書箇所ペトロの手紙一1:3〜9の御言葉を思い出したのです。
  「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。ここで言われている「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」とは永遠の命のことです。神様はその憐れみにより、イエス・キリストの復活の出来事を通して、私たちの死を滅ぼし、永遠の命を備えてくださった。それゆえ、「あなたがたは、終わりの時に現わされるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られてい」ると聖書は語ります。従って、今しばらくの間は色々な試練に悩まねばならないかもしれないが、イエス・キリストが再臨される終わりの日の救いを仰ぎ見て、生き生きとした希望と喜びを持って歩んでいこう。これが、今日の聖書個所に込められたメッセージでしょう。
  その中でも、8節の御言葉、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」という御言葉は、イエス様がトマスに言われた「見ないのに信じる人は、幸いである」という御言葉と通底するものだと思うのです。イエス様がトマスにこのように言われたように、またペトロの手紙一1:8にこのように記されているように、代々の信仰者たちは実際にイエス・キリストを見たことはないが、聖書に語られる復活の証言を繰り返し活き活きと追体験し、現実のものとし、希望の源としてきました。しかし、それは、今の私たちも同じではないでしょうか。
  イエス様の復活された日を記念して教会に集う私たちもまた、実際にイエス・キリストを見たわけではありませんが、聖書に語られている復活の証言を信じ、何度も何度も自分の出来事として追体験していきます。そして、イエス様の十字架と復活を通して罪赦され、新しい命を与えられ、平安を与えられ、聖霊を豊かに受けてこの世へと送り出されていきます。その意味では、いわば主日ごとの礼拝が、私たち自身の復活体験のドラマだと言うこともできるでしょう。
  では、我が身を振り返ってみて、私たちは主日の礼拝の度にイエス様の御復活を、また聖書に書かれている出来事を、他でもない自分自身に関わることとして豊かに追体験することができているでしょうか。それぐらい深く聖書の御言葉に耳を澄ますことができているでしょうか。
  福音書の色々な物語を読んでいくと、そこに登場する人々は必ずしも全員がイエス様の言葉をよく聞くことのできた人たちばかりではなかったことが分かります。ファリサイ派の人々や神殿の祭司たち、そしてローマ総督などは、最初からイエス様を敵視し、その言葉を受け入れようとしませんでした。また、イエス様の言葉を耳にしても、いわば「野次馬」のような態度で、傍観者的にぼんやりと聞き流していたように思われる人々も聖書には出てきます。あるいはまた、イエス様の言葉をまじめに聞くことは聞くけれども、その言葉に根底から揺り動かされて今までの自分の生き方を変え、イエス様の後に従っていくというところまでは行かなかったような人々もいます。
  こうしたことを思うにつけ、私は「よく聞く」ということはどういうことなのかということを思わされるのです。それはまず何よりも、私たちが熱心に集中し、全身全霊を傾けて、イエス様の言葉、また聖書の言葉に聞き入るということであり、その結果としてその言葉に揺り動かされること、今までの生き方を変えること、そして、イエス様に従っていく決意をするということでしょう。つまり、他でもない自分の問題、自分の生き方に関わる問題として聖書の言葉を受け止めようとする姿勢があってこそ、私たちは初めて「よく聞く」ことができるのです。
  私たちは本を読む時に、傍観者的な態度でそれを読むこともできます。実際、聖書を読み、イエス様の十字架の出来事に触れても、「ああ、十字架。今からおよそ2000年前にそんなことがあったんだ」といった感じで、自分とは関係のない物語として読み流す人は大勢いるでしょうし、復活についても「復活?はたしてそんなことがあるかなあ」といった感じで、「クリスチャンだけが信じている、自分とは関係のない物語」として済ましてしまう人も大勢いることでしょう。しかし、それでは、御言葉を「よく聞いた」ことにはならないのです。
  神学者として名高い加藤常昭先生は『聖書の読み方』という本の中で、「自分のことをしばらく捨てておいて聖書を読んでみるということは、聖書そのものがゆるさない」と語っておられます。聖書の御言葉は、傍観者的な態度で読む者には決して分かりません。そこに出てくる人間の罪は他でもない自分自身の罪。そして、そこで語られている救いは、他でもない自分自身の救い。そのようにして、自分自身と結び付けて聖書を読む時に、初めて私たちはそこで語られている神様の恵みが身に染みて分かってきます。私たちを愛して愛して止まない神様の愛、イエス・キリストの愛に出会うことができるのです。
  願わくは、復活節のシーズン、自分自身と結び付けた聖書の読み方を特に意識しましょう。主日の礼拝の度にイエス様の復活の記事を読み、その出来事を追体験し、自分自身に関わる出来事としてこれを捉えていく。そして、救いを実感し、新しい命と平安を与えられ、聖霊を豊かに受けてこの世へと遣わされていく。そのような日々を皆さんと一緒に歩んで参りたいと願います。

 
 
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