復活節第3主日2020年4月26日(日)礼拝・説教要旨
 

「聖なる者」
ペテロの手紙一1章13〜16節 
北村 智史

 早いもので、4月も最後の主日を迎えました。毎年4月と言えば、年度の初めということで教会総会があったり、任職式があったりと、毎主日何がしかのイベントがあってせわしない、そんな印象があるのですが、今年は新型コロナウィルスの影響で会堂での礼拝が中止になり、そうした礼拝後の諸集会も中止になってしまったものですから、なんだか調子が狂ってしまうと言いますか、例年と違う年度の初めに戸惑いを隠せない、そんな日々をこの一か月の間過ごしてきました。それは、教会に集えなかった皆さんも同じことと思います。一日でも早く元の生活に戻り、皆で一緒に再び礼拝堂で神様を讃美することのできる日が来ることを願わずにはおれません。
  しかしながら、このように混乱した状況の中にあっても、皆さんのご協力をいただきまして、4月中に書面で教会総会を開催することができたのは大きな喜びでした。教会もこの世の組織であるからには、宣教計画や諸活動の反省と展望、経済的運営のことを検討しなければなりません。教会総会の結果はまたすぐに皆さんにお知らせいたしますが、今回資料を見ていただき、意見をお寄せいただいたことに沿って、今年度の教会の働きを進めて参りたいと存じます。願わくは、困難の中にあっても復活の主が私たちの歩む道を照らしてくださいますように、そうして、豊かな働きを私たちに為さしめてくださいますように、心を込めてお祈りしています。
  さて、復活節第3主日となります今朝はペトロの手紙一1:13〜16を聖書箇所に取り上げさせていただきました。実は先週の主日には、この直前の箇所、ペトロの手紙一1:3〜9を聖書箇所に取り上げさせていただいたのですが、そこには、イエス・キリストの復活によって永遠の命という救いが私たち一人ひとりに与えられた事実、その喜びが美しい文章で記されていました。その救いは、やがてキリストの再臨の日に完成する。だから、今は色々な試練に悩まなければならないかもしれないが、そうした苦しみの中にあっても私たちは希望を与えられ、素晴らしい喜びに満たされるのだ。ペトロの手紙一の著者は、そう記しています。
  今日の聖書個所はその続きの部分です。先週の聖書個所を受けて、「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」と読者一人ひとりに呼びかけています。イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって救われた者は、その恵みに相応しく聖なる者となり、聖なる生活をしなければならないと言うのです。
  今回、この聖書個所を読みまして頭の中に思い浮かんだのが、ディートリッヒ・ボンヘッファーの『キリストに従う』という神学書です。この本の中でボンヘッファーは、恵みには「安価な恵み」と「高価な恵み」の二つがあると主張しています。「安価な恵み」とは、「イエス様が十字架で私たちの罪を贖ってくださって、私たちは神様に罪を赦されたのだから、後はもう罪に溢れるままやりたい放題したらいいのだ」と人々に考えさせる、パウロの信仰義認を完全に誤解した、悔い改め抜き、キリストへの服従抜きの恵みに他なりません。これに対して、「高価な恵み」とは、人々をまことの悔い改めとキリストへの服従に導く恵みのことを意味しており、キリスト者はイエス・キリストの十字架の恵みを「高価な恵み」としなければならないとボンヘッファーは言うのです。
  今日の聖書箇所が教えているのも、そういうことでしょう。私たちはイエス・キリストの十字架と復活の恵みを前にして、これ幸いと罪の放縦に走るべきではありません。むしろ、その恵みに感謝して、心を引き締め、身を慎んで聖なる者となり、聖なる生活を志していかなければならないと、ペトロの手紙一の著者は私たち一人ひとりに訴えています。
  では、ペトロの手紙一の著者が言う「聖なる者」とは、はたしてどういう者を指しているのでしょうか。また、「聖なる生活」とは、はたしてどのような生活を言うのでしょうか。
  旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「聖なる」という言葉は「カドシュ」と言いまして、これは「分離」を意味する言葉です。つまり、聖書の伝統では、汚れたものから分離したものが「聖なるもの」とされたのです。それは、人にも物にも当てはめられました。ただし、ここが大事なのですが、ただ単に汚れたものから離れただけでは「聖なるもの」と呼ばれる条件を半分しか満たしたことになりませんでした。それが「聖なるもの」とされるには、さらに神様に属するものとなることが必要だったのです。神様のものになると、人はもちろん、神殿の器具なども聖なるものとされました。つまり、「聖別」という言葉がありますが、汚れたものから切り離されて神様に属するものとされること、それが「聖なるもの」とされることだったのです。
  こうしたことを踏まえた上で、改めて今日の聖書個所に出てくる「聖なる者となりなさい」という言葉を考えると、これがただ単に道徳的に優れた者になりなさいとかいったことを意味しているのではないことが良く分かるでしょう。「聖なる者」、それはイエス・キリストの十字架によって汚れた罪から贖い出され、神の民とされた人々であり、「聖なる生活をする」とは、それにふさわしい生活をするということです。今日の聖書個所の続きの箇所、ペトロの手紙一1:17〜25を読めば、それが、神様を畏れ、隣人を愛し、御言葉によって新たに生まれる生活であることが良く分かります。汚れた罪から切り離され、神様に属するようになった者として、もう二度と罪に戻るまいと闘う、そして、日々悔い改めを捧げ、御言葉によってキリストに従う者へと生まれ変わっていく、そのような生活です。そうした生活を、これからの復活節の時期、私たちはしっかりと過ごしていきたいと願うのですが、一つ押さえておかなければならないことがあります。
  それは、「聖なる者」というのは、イエス・キリストの十字架によって汚れたこの世の罪から贖い出された者、そうした意味ではこの世の罪と切り離された者でありながら、なおこの世の罪の現実と深く関わっていく、そのような存在だということに他なりません。なるほど、教会に集う者は確かにイエス・キリストの十字架に贖い取られた者として、この世の罪とは分離した状態に置かれなければなりません。イエス・キリストの恵みを仰ぎ見て、イエス・キリストに倣い、自らの内に残る罪と闘って、日々神様の御心に適う存在へと生まれ変わっていく聖化の道を歩んでいかなければなりません。そうした意味では、「聖なる者」が集う教会は、この世の罪とは全く切り離された「山の上にある町」(マタイによる福音書5:14)です。エフェソの信徒への手紙5:8にある如く、「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となってい」る人々の群れです。
  しかし同時に、この教会は、山の上に閉じこもることを決して許されてはいません。山の下の現実、この世の罪の現実に深く関わっていく、そうしてその現実を皆で一緒に変えていく使命を神様から託されています。私たちは「世の光」(マタイによる福音書5:14)として、その使命をしっかり果たしていかなければなりません。かつてのファリサイ派の人々のように、「罪人」と見なした人々と距離を取って、その現実に一切関わらないで生きることなど許されてはいないのです。
  しかしながら、ここで教会の現実を見れば、社会的な関心が薄く、自分たちの救いのことだけを考える、そんなサロンのような教会が何と多いことでしょうか。そのような中にあって、私たち、今日の聖書個所に説かれている「聖なる者」とはどういう存在か、「聖なる生活」とはどういう生活かを改めて考えていきたいと願います。神様によってこの世から選び取られた者として、日々聖化の道を歩み、この世の罪の現実にしっかりと向き合っていく、そしてその現実を変えていく使命をしっかりと果していきたいと願います。

 
 
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