復活節第 4主日2020年5月3日(日)  礼拝・説教要旨
 

「ぬるま湯のような教会」
ヨハネによる福音書21章15〜19節、ヨハネの黙示録3章14〜22節 
北村 智史

 4月も終わり、5月に入りました。新型コロナウィルスの影響で、会堂での礼拝を中止し、それぞれのご家庭で神様に礼拝をお捧げいただくという形に切り替えてから、およそ一月が経過しようとしています。私にとっては、教会員の皆さんのお顔が見えない寂しい一月でしたが、皆さんはこの一月をどのように過ごしておられたでしょうか。
  新型コロナウィルスについては、肺炎を引き起こし、容体が悪化する速度も速いその症状も、またその感染力も恐怖ですが、さらに人と人とを引き裂くその力も私は恐怖だと思います。人とは2メートルの距離を空けて、握手も会話も控えなければならない。そのことを絶えず意識させられるだけでも苦痛なのに、外食したり、外で遊んだりという息抜きもできない。これから先の生活がどうなるかも分からない、そんな経済的な不安や感染するかもしれないという恐怖の中でストレスばかりが溜まり、心がすさんでいく。その結果、家庭内での喧嘩やDVも増えていると聞きます。私の知り合いの牧師の教会では、新型コロナウィルスの対応を巡って役員同士が対立し、非難し合うような分裂も生じていると言っていました。まさに新型コロナウィルスが人々を引き裂く「悪しき力」となって猛威を奮っています。
  そのような中にあって、「今、教会に求められていることは、新型コロナウィルスという世と人々を引き裂く『悪しき力』に打ち震えている人々のために真摯に祈る群れとなること」(4月10日に出された日本基督教団「新型コロナウィルス感染拡大防止に関する声明」より)でしょう。今はまだ教会に集えない、そんな状況ですが、それでもこのウィルスに苦しむ人々のために、それぞれのご自宅から祈りを合わせていきたいと願います。
  さて、今日は聖書の中から、ヨハネによる福音書21:15〜19とヨハネの黙示録3:14〜22を取り上げさせていただきました。まずヨハネの黙示録の方から見ていきましょう。
このヨハネの黙示録には、数々の幻や想像を絶するような生き物が描かれています。まるでSF小説か恐怖映画のようです。おまけに謎めいたことや秘密めいたことが多く書かれています。何のことかさっぱり分からないと思う方がいても不思議ではありません。ですから、これを解釈する人の中には、一頃話題になった「ノストラダムスの大予言」と同じように黙示録を読む人が後を絶ちません。やれこのテキストは第二次世界大戦を予言していたんだとか、あの個所は米ソの緊張関係だ、キューバ危機だ、イラン・イラク戦争だ、チェルノブイリだとかいったように、黙示録の言葉と一つひとつを対応させて、これらは予言の言葉だと解釈するのです。そして、もうすぐ世の終わりが来ると言って、終末の危機を煽ります。確かに終末的緊張感を持って生きることは大切ですが、しかしこのように未来の出来事を予め言い当てる「予言書」として聖書を読む読み方は、歴史を無視した誤りであると言わなければなりません。
  このヨハネの黙示録は、「ヨハネ」という人物が語ったとされ、書かれた時期は紀元100年前後の頃と思われます。紀元1世紀から2世紀の前後と言えば、ローマ帝国のキリスト者に対する迫害が強くなった頃です。ローマ皇帝のドミティアヌスは、自らを「主にして神である」と宣言し、すべての人に忠誠を求めました。軍事力に支えられる権力者たちは、皇帝を神として礼拝することを人々に義務化し、キリスト者にも強要しました。そして、これに服従しないものは処罰されたのです。信仰の先達者たちにとって、自らの弱さや苦しみ悩みに加え、その社会の中で生きることは大きな試練の時でした。彼らは権力の横暴につぶされそうになる不安と恐れ、そして信仰の危機を経験していました。
  また当時、ローマ帝国の権力と暴力支配に抵抗した人々は犯罪者として死刑にされ、あるいは流刑地に送られました。その流刑地の一つに「パトモス」という島がありました。この島のどこかに、先程のヨハネが囚われていたのです。彼は皇帝礼拝を拒否する、そしてローマ帝国の秩序を乱すイエス・キリストの福音を宣べ伝えたということで迫害を受け、この島に流刑になり、監禁されていました。しかし、そのような苦難の中に置かれながら、彼は神様が新しいことを引き起こすということを信じ、新しい生命を与えられた復活の主に生かされていました。そして、ある主日、すなわち日曜日に、イエス・キリストより啓示を受けたのです。それは大まかに言えば、イエス・キリストの再臨が間近に迫っており、その時にはローマ帝国を初め、自分たちを迫害するキリストの敵対勢力は裁かれて、自分たちは救いの祝福を得るという逆転が起こるという内容のものでした。そのヨハネによって語られ、書かれた書物と伝えられている黙示録には、多くの幻や不可思議な表現が用いられています。これらは一般の人には分からないものでしたが、同時代において迫害されていたキリスト者にはぴんとくるものでした。ヨハネはこのように暗号のような形でと言いますか、自分を監禁しているローマの人々には分からない、けれども同じ迫害下にあるキリスト者には理解できる仕方で壮大なメッセージを示し、受難の時代を生きるキリスト者に励ましと希望を語ったのです。
  こうしたヨハネの黙示録全体を貫くテーマをまとめますと、だいたい次のようになるでしょう。現在の様々な苦しみの中で、やがて来るべき新しい世界を待ち望みながら生きていきなさい。その時、イエス・キリストの愛に敵対する者、また悪魔的な力を奮う者は必ず打ち滅ぼされる。その希望を与えられる。キリスト者はどんなに苦しくても、その希望に生かされる。だから悪しき力と闘い、苦難の中で信仰を持って生きなさい。ヨハネは流刑の苦しみの中にありながら、自分を生かす復活のイエス・キリストの生命によって奮い立たされ、諸教会に連なって必死に生きる人々にこのように語りかけています。(以上のことについて、詳しくは、山口雅弘『イエスの道につながって――教会暦による随想とメッセージ』、新教出版社、2010年、136〜138頁を参照)
  こうしたヨハネの黙示録には、ヨハネと同じくローマ帝国からの迫害に苦しむアジア州の7つの町の教会に宛てたメッセージが収録されています。今日の聖書箇所3:14〜22は、その中でもラオディキアにある教会に、ヨハネが「主はこう言っておられる」とメッセージを書き送っている場面に他なりません。
  このラオディキアという町はB.C.3世紀にアンティオコス二世によって建設された町で、その名前はアンティオコス二世の妻ラオディケの名に由来すると言われています。この町は、当時、その交通の便の良さから世界の商業中心地として栄えていました。この町の金融業と毛織物業は有名で、A.D.60年の地震で町が一度破壊された時にも、ローマ政府からの援助を辞退して自力で復興できたほど、この町は富裕さを誇っていたのです。文化の面でも、ここには有名な医学校があり、ここで作られた目薬が当時の世界中に輸出されていました。この町には、7,500人以上のユダヤ人の植民がいたことが知られています。コロサイの信徒への手紙4:12〜13によれば、この町に福音が伝えられたのは、パウロの同労者エパフラスを通してでした。この町は経済的には繁栄していましたが、信徒たちの信仰は全く堕落しきっていたようで、今日の聖書個所を読みますと、この町にある教会に、非常に厳しい調子で手紙が書き送られているのが分かります。
  当時、ラオディキアにある教会には、ローマ帝国やユダヤ教といった外部からの迫害の危険はなく、また、ある者が教会内部で偶像崇拝や不品行を行うように説くというような異端の危険もありませんでした。しかし、経済的に裕福だったこの町の教会の人々は、平和と繁栄のゆえに現状に対する自己満足に陥ってしまい、熱心にキリストに仕え奉仕することもなく、かといってキリストに冷たく反対するということもなく、ただいたずらに神様と隣人に対して無関心で不徹底な「なまぬるい」信仰生活を過ごしていたようです。
  こうした教会の人々に対して、ヨハネは主の言葉として、「わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」、「あなたは……自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」と痛烈な批判を加えています。物質的な豊かさと霊的な豊かさは、決してイコールではありません。ラオディキアにある教会の場合、物質的な豊かさがかえって人々を霊的に貧しくしてしまっていたのでした。
  今日の聖書個所を読んで、私はルカによる福音書12:13〜21の「『愚かな金持ち』のたとえ」を、特に21節の「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」というイエス様の御言葉を思い出しました。キリスト者は天に富を積み、神様の御前に豊かになることを求める者であって、この世で物質的に満ち足りていることで自己満足に陥ってしまうことは、信仰にとっては躓きとなるのです。
  こうしたラオディキアの教会の人々に対して、物質的にではなく、霊的に豊かになるように熱心な信仰を持ち、信仰において何が本当に大切な事柄かを弁えるように目を覚まして、信仰の勝利者に与えられるキリストの義の衣をひたすら求めていくようにという勧告が為されていきます。
  ヨハネが告げる主の言葉は非常に厳しいものでしたが、それは「愛する者」に対する愛ゆえの叱責でした。それゆえ、ラオディキアにある教会の人々は、このキリストの愛に応えて熱心に信仰生活に努め、悔い改めをしなければなりません。この悔い改めを求めて、キリストはラオディキアにある教会の人々の心の戸をたたいておられる。これに応じて心の戸を開き、これまでの信仰生活を悔い改めてキリストを心の中に迎え入れる者は、キリストとの深い交わりに与ることができる。そして、まもなくやってくる再臨(終末)の時には、神の国に招き入れられ、そこでの祝宴にキリストと共に列席する祝福に与ることができる。また、そのようにして信仰の勝利者となった者は、キリストが既に勝利を得て父なる神と共に玉座に着いておられるように、キリストと共に玉座に着く栄誉が与えられる。それゆえ、「耳ある者は、霊≠ェ諸教会に告げることを聞くがよい」と、ヨハネは復活の主の言葉として、地上の富に満足せず、絶えず天に蓄えてあるさらに豊かな祝福を仰ぎ望むことを勧めています。
  こうしたヨハネの勧告は、決して今の私たちと無関係ではないでしょう。今の私たちもまた物質的な豊かさの中で霊的に貧しくなっていないか、自分の姿を省みなければなりません。
このことに関連して、かのマザー・テレサは、かつて日本を訪問した際にこんな言葉を語っていました。「けさ、私は、この豊かな美しい国で孤独な人を見ました。この豊かな国の大きな心の貧困を見ました。カルカッタやその他の土地に比べれば、貧しさの度合いは違います。また、日本には貧しい人は少ないでしょう。でも、一人でもいたら、その人はなぜ倒れ、なぜ救われず、その人に日本人は手をさしのべないのでしょうか。豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。だれからも必要とされず、だれからも愛されていないという心の貧しさ。物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です。心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。日本のみなさん、豊かさの中で貧しさを忘れないでください。」
  物質的な豊かさの中で自己満足に陥ってしまい、愛し合うこと、手を差し伸べ合うことを忘れてしまう心の貧しさ。また愛されたい、必要とされたいと願う心の飢え。マザー・テレサが指摘したように、この日本には、そうした貧しさがそこかしこに溢れているのでしょう。そのような中にあって、私たちはしっかりと目を覚ましていなければなりません。物質的な豊かさ、その現状に自己満足して、熱心にキリストに仕え奉仕することもなく、かといってキリストに冷たく反対するということもなく、ただいたずらに神様と隣人に対して無関心で不徹底な「なまぬるい」信仰生活を過ごすということがないようにしなければなりません。
  今日のもう一つの聖書箇所、ヨハネによる福音書21:15〜19の中で、復活の主はペトロに3度「わたしを愛するか」と問われました。ペトロは3度も確認されたことを悲しみますが、ここには、あえて3度問いかけることを通して、十字架の前に「イエス様を知らない」とペトロが3度否定したことを帳消しにするイエス様の赦しの愛が現れています。そして、イエス様は3度にわたって「わたしの羊を飼いなさい」と宣教牧会の使命を与え、ペトロを待ち受ける厳しい将来を予告しながら、それでも「わたしに従いなさい」と語りかけるのです。
  ヨハネの黙示録3:16〜17で、ヨハネはラオディキアの教会の人々に、「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、……自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」という主の厳しい言葉を書き送っていますが、イエス様に従う道とは本来決して「なまぬるい」ものではありません。その道の途上で自らの惨めさや哀れさに直面することを避けられないのです。しかし、イエス様の十字架を前に弱さと卑怯さをあらわにしたペトロは、それを赦された上で新たな使命を与えられました。そのように、イエス様は人間的な弱さや惨めさを責め立てるのではなく、それを乗り越えて精錬されていくように、また弱さを通してこそ神様の栄光を輝かせるように私たち一人ひとりを導いておられます。
  願わくは復活節のこのシーズン、私たちが物質的な豊かさ、その居心地の良さの中で、ぬるま湯に浸かるような、そんな厳しさを欠いた甘えの体質に陥っていないか、そうしてそのことが自らの信仰的成長を妨げることになっていないか、自らをしっかりと省みたいと願います。熱くも冷たくもなく、悔い改めることもない、ただただ現状に満足して怠惰に過ごす「ぬるま湯のような教会」に将来はありません。熱心に己を見つめ、神様の御前に豊かになり、熱心に神様の御心を行っていく、そんな「熱い」教会をこの府中の地に打ち建てていきたいと願います。

 
 
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