復活節第 5主日2020年5月10日(日)  礼拝・説教
 

「私たちはいかにして憐れみ深くあるのか」
マタイによる福音書 5章 7節 
北村 智史

 教会で信仰生活を過ごしていますと、よく「憐れみ」という言葉に出会います。実際、聖書を読みますと「憐れみ」という言葉はよく出てきますし、お祈りの中でも、私たちは「主よ、憐れんでください」といった言葉をよく口にします。そうしたことを鑑みますと、どうやら「憐れみ」という言葉は、神様を理解する上でのキーワードとなる言葉のようです。私たちは神様のことを「憐れみ深い方」と信じているのです。
  そして、実際、人となられた神様であるイエス様は、非常に「憐れみ深い」方でした。聖書には、イエス様が「憐れに思われた」箇所がたくさん出てきます。この「憐れに思う」という言葉は聖書が書かれたコイネー・ギリシア語では「スプランクニゾマイ」という言葉でして、これは「スプランクノン」(「内臓」)という言葉に由来する言葉です。つまり、「はらわた、内臓を衝き動かされるような、そんな思いに駆られて居ても立ってもいられなくなる」、そんな思いを、聖書は「憐れむ」とか「憐れに思う」と表現しているのです。イエス様はしばしばそのような思いで人々に寄り添われました。
  そんなイエス様が「山上の説教」の中で「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」と語っておられるのは、とても大切なことだと私は思います。「憐れみ」に生きられたイエス様は、イエス様に従う私たち一人ひとりにも「憐れみ深く」あるように求めておられるのです。しかしながら、ここで自分自身の姿を振り返ってみれば、そのように「憐れみ深い」とは到底言えない心や行いばかり目に付くのではないでしょうか。そんな私たちはいかにして「憐れみ深く」あることができるのでしょう。今日は、このことを考えてみたいと思います。
  さて、先程私は、イエス様は御自分に従う私たち一人ひとりにも「憐れみ深く」あるように求めておられると言いました。しかし、このことを考えた時にまず思わされるのは、はたして私たちにそんなことが可能だろうかということです。
  「憐れみ深く」あること、愛の心を持つことが素晴らしいこと、良いことであることは誰でもが了解していることだと思います。私たちはできることならばそうした心を持ちたいと願う。けれども、いざ愛の心、「憐れみ」の心に徹しようとすると、非常に心もとなくて、なかなかそれができない。他人の愛や「憐れみ」は受けたいと求めるけれども、いざ自分がそれらを与える側になるととてもではないが完璧には与えられない。それが私たちの正直な姿ではないでしょうか。
  それゆえ、私たちは苦しみます。「憐れみ深く」あろう、愛の心を持とうとして、それができない現実との狭間でもがき苦しみます。実際、私はこれまで、親や保育士、幼稚園の先生などから、どうやっても感情を抑えることができずに子どもを怒鳴ってしまう、子どもに手をあげてしまう、愛の心を貫きたい、「憐れみ」の心を貫きたい、けれどもそれができないと苦しむ相談を何件も受けてきました。DVや体罰にも繋がる深刻な相談です。これらの方々が特別なわけではありません。子どもに関わる人ならば誰しもが一度は抱いたことのある悩みではないでしょうか。こうしたことを思うにつけ、私は「憐れみ」や愛を全うできない人間という存在の弱さを思わされます。私たち人間は本当に罪人であり、不完全で、愛一つ、「憐れみ」一つにおいてすら完全に生きることができないのです。
  では、イエス様はもともと不可能なことを私たちにお求めになったのでしょうか。聖書は私たちにできないことを要求する書物なのでしょうか。もしそうなら、私たちは聖書を前にして自分をごまかすか、ごまかさないで苦しみ続けるか、どちらかになってしまいます。私たちは聖書をそのように読むべきではありません。イエス様が「憐れみ深くあれ」と私たちに仰るのには、もっと深い意味があると私は思います。そのことを考えるために、ここでマルコによる福音書10:17以下に記されている「金持ちの男」の話を見てみましょう。金持ちの男が戒めをすべてきちんと守りながら、永遠の命が得られないでイエス様に尋ねる、そうするとイエス様は「あなたに足りないことが一つある」と仰って、自分の財産を皆貧しい人々に与えることをお勧めになる、そしてそれから御自分に従うことをお求めになる、ところが金持ちの男はそれができないで帰ってしまったというお話です。
  正直なところ、皆さんはこのお話を読んでどう思われたでしょうか。きっとこの男、青年は誠実に道を求めていたのでしょう。その青年に対するイエス様の要求はちょっとひどすぎるように私には思われます。無理なことであり、この青年に同情したくなります。信仰に入るということがこういうことだとしたら、きっと誰も信仰なんか持てないでしょう。では、やはり聖書は私たちに無理なことを要求する書物なのでしょうか。
  しかし、この聖書個所には続きがあります。結論を急がずに、まずはそこをじっくりと見てみましょう。ここには、財産のある者が神の国に入るのはらくだが針の穴を通るより難しいというイエス様の言葉が記されています。これは不可能ということです。私たちの中でよほど決断力に富んだごく少数の人だけが神の国に入ることができるということなどではありません。「それでは、だれが救われるのだろうか」という弟子たちの問いも、そんなことなら誰も救われないではないかという心の表れだと言えます。しかし、ここでイエス様はとても大事なことを仰っておられます。「人間にできることではないが、神にはできる」と仰っておられるのです。これは、はたしてどういうことでしょうか。
  青年は小さい時から戒めを一つひとつ守って来ました。苦労して石を積み上げるように守って来ました。それがもうすぐ天にまで達する。あともう一歩の力が足りなかった。それですべての努力が水泡に帰した。そういうことではないということです。青年に求められたのは、そういう自分の努力を一切捨てることです。おそらく彼の生活、彼の心を支えていたのは、自分の財産ばかりではなかったでしょう。小さい時から築き上げてきた厳格な生活と、それによって多くの人から尊敬されているに違いない名誉ある立場、地位というものがあったと思います。イエス様に従うということはそういうことを皆捨てることだったのです。根本から変わらなければならないわけです。
  どう変わるかと言えば、自分には何もできない、しかし神様には何でもできるということを認めることです。神様にしか期待しない、神様によって生かされることしか求めない者になるということなのです。財産を捨てること、イエス様に従うこと、それは自分ですることのできないことです。そのことからして既に神様にしていただかなければならない。神様に対する真実の信仰そのものが、自分の努力によって獲得するものではなく、神様から与えられるものなのだということです。
  愛や「憐れみ」についても、同じことが言えるのではないでしょうか。自分の努力で、また自分の力で、いくら愛に徹しよう、「憐れみ」に徹しようとしても、私たちはそれを完全に行うことはできません。にもかかわらず、自分の力でそれをしよう、自分の努力でそれをしようとするから、「それができない」ともがき苦しむのです。自分には何もできない。しかし神様には何でもできる。私に「愛」や「憐れみ」の心を授けることもおできになる。そう信じて、神様に「愛」や「憐れみ」の心を与えてくださるようにお願いするのです。まったく神様により頼むのです。その時、敵でさえも愛されたイエス様のその愛、「憐れみ深さ」が、私の心の中にもしみ出してくるのではないでしょうか。
  このことに関連して、ある本にこんな話が紹介されていました。かつてイギリスで社会事業に献身的な働きをした、ジョセフィン・バトラーという婦人のお話です。この人がある婦人刑務所を訪れた際、一人の大変手に負えない女性の囚人にぶつかったそうです。ちょうど一人の牧師が色々話しかけていたけれども、罵られるばかりでやむなくそこを去るところでした。この光景を見て、バトラーも一瞬たじろぎました。しかしバトラーは意を決して近づくと、何事も非難せず、その乱れた枕をそっと直しました。それからほんのわずかの優しい言葉をかけたそうです。この後、この女囚はバトラーの言葉に耳を傾けるようになりました。そして、数日後について世を去ったのです。しかし、彼女は信仰を持って安らかに死にました。バトラーは後にこう述べました。「私はあの粗野な野蛮な心に何を言っていいのか分からなかった。ただ私はキリストのことを考えた。キリストはこの女性のためにも血を流されたのだということを思ったのだ」。
  この話を紹介してくれた加藤常昭先生は、その本の中でこんな言葉を語っておられます。「この話は、『あわれみ深い人』の心とはどういうものかを、よく表わしています。自分の心が広く、あわれみぶかいのだ、だから人を愛するのだ、というような自信に生きる人たちのことなどではなさそうです。むしろ逆です。自分が人をあわれむことなどできないことだと知っています。たじろがずにおれないのです。しかしその自分がすでにキリストに愛されていることを知っています。弱さ・みじめさ・貧しさのゆえに、主のあわれみを受け、それによってのみ生きていることを知ります。そしてその主のあわれみが、自分だけのものではないこと、バトラーがしたように、すべての者の背後に、常にこのあわれみがそそがれていることを知ります。そのあわれみのゆえに、自分なりに、わずかなりとも愛の奉仕をせずにおれません。大げさなことは必要ないのです。バトラーがしたことも、ほんのちょっとしたことなのです。けれどもそれを神が用いてくださるのです。思いがけない実を結ぶことができるようにしてくださるのです」。
  これが、私たちの愛や「憐れみ」の秘訣です。このように考えた時に、「憐れみ深い人々は幸いである、その人たちは憐れみを受ける」というイエス様の言葉の意味もよく分かってくるのではないでしょうか。主の憐れみの中に全身を包まれるようにして立つキリスト者の姿、主から「憐れみ」をいただき、隣人への「憐れみ」に押し出されていくキリスト者の姿がここにはあります。弱さと欠けを抱えた私たちではありますけれども、この復活節のシーズン、自分の力を頼りにするのではなくて、神様に依り頼む気持ちを改めて大切にしていきましょう。主の愛と「憐れみ」に包まれて、「内臓を衝き動かされるような思い」になって、豊かに人を愛していきたい、「憐れみ」を実践していきたいと願います。

 
 
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