復活節第 6主日2020年5月17日(日)  礼拝・説教
 

「しかし、勇気を出しなさい」
ヨハネによる福音書 16章 25〜33節 
北村 智史

 当初は5月6日までと言われていた政府の緊急事態宣言も、5月末まで延長されました。東京府中教会では4月第一主日から会堂での礼拝を休止していまして、それからおよそ1月半が経過したことになりますが、長引く自粛に、皆さんの疲れもピークに達してきているのではないかとお察しいたします。2020年が幕を開けた時、誰がこうなることを予想できたでしょうか。まさに誰もが経験したことのない初めての事態に、この数か月の間、私たちは直面してきたわけですが、そのような中にあって、教会も色々な対応を余儀なくされました。東京府中教会だけではありません。世界中のすべての教会が、新型コロナウィルスのパンデミックという未曽有の事態に対処することを余儀なくされたのです。
  役員の方々と相談し、他の教会の牧師とも情報を交換しながら、本当に手探り状態でこれまでの対応を決めてきました。礼拝の短縮、会堂での礼拝の休止、総会をどうするか、献金をどうするかなどなど、何せ初めての経験でしたのでスムーズにいかなかったこともあったかもしれません。しかし、そのような中を、皆さんにご協力をいただきながら支えていただきました。改めて感謝申し上げます。今、私が皆さんと共有したい御言葉は、コリントの信徒への手紙二12:10でパウロが語った「わたしは弱いときにこそ強い」という御言葉に他なりません。今はなかなか終わりの見えない状況で忍耐の時ですが、私たちに尽きることのない希望を与えてくださる復活の主に支えられて、力強くこの困難の時を乗り越えていきたいと願っています。
  さて、今日は聖書の中からヨハネによる福音書16:25〜33を取り上げさせていただきました。ヨハネによる福音書では14章からイエス様の訣別説教が収録されていますが、この箇所はその終わりの部分です。ここでイエス様は、御自分の死と復活、昇天の出来事を再び予告し、さらにはその昇天の出来事の後、弟子たちに、罪深いこの世から激しい迫害があることを予告します。しかし、御自分はこれから始まる十字架と復活、昇天の出来事を通して罪深いこの世に勝利することが神様の御心によって既に決まっている、それゆえ、弟子たちにも、罪深いこの世に対する勝利が約束されているとして、このような迫害に直面しても動じることなく勇気をもって歩むよう、弟子たちを力強く励まされました。
  ヨハネによる福音書に記されているこのイエス様の言葉は、イエス様昇天後、実際に迫害に直面して苦しんでいたヨハネの時代の人々、すなわち1世紀末の教会の人々に対する力強い励ましのメッセージになっています。特に33節の言葉、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」というイエス様の御言葉は、迫害に苦しむ1世紀末の教会の人々を大いに励ましたことでしょう。それだけではありません。このイエス様の御言葉は、それ以後も、この世の困難の中で苦しみながら福音宣教に励むすべての教会の人々にとって、恒久的に励ましの言葉であり続けているのです。
  今日の聖書個所を読みまして、一つ思わされたことがあります。それは、「厳しい状況が告げられたその時に、イエス様の愛は親しく臨むのだなあ」ということです。今日の聖書個所の中で、「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(16:28)と言われたイエス様は、弟子たちが十字架を前に御自分から離れ去っていくのを予告した上で、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」と語ります。しかし、イエス様がこの世を去り、弟子たちも散らされていく、そのようなことを聞かされて、どうして弟子たちは平和を得ることができるでしょうか。しかし、弟子たちが非常に厳しい言葉を聞いたその時にこそ、イエス様は「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と、罪深いこの世に対する勝利の言葉、励ましの言葉、愛の言葉を高らかに宣言なさるのです。
  実は今日の聖書日課では、旧約聖書に出エジプト記33:7〜11が選ばれているのですが、そこでも同じようなことが行われていました。そこには、イスラエルの民が金の子牛像を造って礼拝する罪を犯したために、天幕を張って執り成しの祈りを捧げるモーセの前に、主なる神様が雲の柱の内に現れて、「人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」(33:11)と記されています。モーセも民も、最も厳しい裁きを覚悟したに違いないその時に、最も親しい姿でモーセの前に現れる神様の姿に、私たちの思いを遥かに超えた深い愛を見ることができるでしょう。
  実に神様の愛、イエス様の愛は、私たちが厳しい状況の中にある時にこそ親しく臨んで来るのです。その最大の場面が、イエス様の十字架の場面だったと私は思います。ローマの信徒への手紙8:38〜39で、パウロが「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」とその確信を語っているように、神様の愛は、私たち人間の罪が頂点に達した、それゆえイエス様に従う者ならば誰しもが絶望せざるを得なかった十字架と、そして復活において現れ、その愛はこの世の何ものの力によっても私たちから離れることはないのです。イエス様が「わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16:33)と語られたのも、これからイエス様が進みゆく十字架と復活において全うされる神様の愛に勝る力はこの世には無いということなのでしょう。だから、弟子たちも私たちも、この世の苦難の中に平和を見出していくことができるのです。
  アメリカの公民権運動の時に盛んに歌われた黒人霊歌「勝利をのぞみ」の原詩には、「いつか、イエスのようになれる。いつか、私たちは打ち勝つことができる。いつか、私たちはみな、自由になれる。心の奥底から、そう信じている」というシンプルな言葉が繰り返されています。ここにはあらゆる差別、偏見、抑圧、それゆえに生じる貧困と闘う世界中のキリスト者が時代を超えて分かち合ってきた確信があります。この世の罪の力、悪の力、抑圧的暴力的な力は多くの人々を傷つけ、命を奪うこともあるだろう。しかし、この世のいかなる力も、命を与える神様の愛を滅ぼすことはできず、苦難と闘いのただ中に生き続けるイエス様は必ずすべての人を真の平和と自由に導かれるという私たちの確信と希望を奪い去ることはできないのだ。
  この確信は、今目の前で直面している新型コロナウィルスという苦難を前にしても揺らぐことはありません。この厳しい苦難の中にあってこそ、主の愛は私たちに親しく臨み給う。そして、私たちを力強く支え給う。そうして、必ずや私たちを希望と勝利へと導き給う。私たちはこのことを強く信じます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16:33)。今しばらくは忍耐の時ですが、イエス様のこの言葉に励まされて、今という時を力強く乗り越えていきましょう。

 
 
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