復活節第 7主日2020年5月24日(日)  礼拝・説教
 

「今、礼拝を改めて手考える」
マタイによる福音書 18章 20節 
北村 智史

 世界中が新型コロナウィルスとの闘いを強いられてから、どれくらいが経ったでしょうか。東京府中教会では3月22日から、讃美歌や交読詩編を割愛し、説教も短くして礼拝時間を30分に短縮した形での礼拝を余儀なくされ、さらに4月5日から会堂での礼拝を休止せざるを得なくなりました。このように役員の方々と相談しながら新型コロナへの対応を考えていく中で突き付けられたのは、礼拝とははたしてどういうものなのかということです。
  奇しくも4月10日に出された日本基督教団の「新型コロナウィルス感染拡大防止に関する声明」には、こんな言葉が記されていました。「わたしたちプロテスタント教会は、御子キリストを十字架に架けられるほどに愛してくださった神の愛に応えるために、いかなるときにあっても、一人ひとりが、礼拝をささげることによって信仰を守って来ました。礼拝に『信仰の命』があります。しかしながら、今や、その礼拝が、新型コロナウィルス感染のリスクによって脅かされています。神の愛に応える尊い行為そのものが、“ウィルスの感染”に繋がる危険が生じています。この危険を避けるために、これまでのように礼拝堂など一つの箇所に集ってささげることが、果たして相応しいのか問われる事態になっています」。
  こうした中で、私たち一人ひとりが礼拝をどのように考えるのか、改めて問われました。教会が公同礼拝を中止することなどあり得るのか。礼拝を中止するとは言わず、家庭礼拝という形で続けるとして、それが教会で捧げる公同礼拝の代わりになるのか、もしなるのだとしたら、あえて教会で公同礼拝を捧げてきた意味とははたして何なのか、礼拝は命より大事なのかなどなど、こうした問いを、私だけでなく、牧師や役員を初めとした教会の運営に関わるすべての人々が突き付けられたのです。
  そして、その中で導き出した教会の対応も、実に様々でした。命を守るためということでまったく活動を休止した教会もあれば、家庭礼拝という形で礼拝を続けることを選んだ教会もあります。そういう教会は、月の初めにその月の説教原稿をすべてお渡ししたり、主日の前に説教原稿をHPにアップしたり、you tubeで動画を配信したりしているようです。東京府中教会でもこうした取り組みをしています。その他にも、礼拝は命よりも大事、どんなことがあっても公同礼拝は崩さないという考えなのでしょうか、今も通常通りの礼拝を粛々と行っている、そんな教会もあるようです。命と礼拝、どちらが大事なのかという観点から役員同士が対立してしまった、そんな教会もあったというふうに聞いています。
  まさに初めての経験の中を、それぞれの教会が手探りで対応を進めてきたわけですが、やはりどこかで今回礼拝について考えさせられたことを総括しておいた方が良いだろうと思いまして、今回、このようなタイトルでお話をさせていただくことにいたしました。東京府中教会では会堂での礼拝を休止し、それぞれのご自宅で祈りを合わせていただく家庭礼拝という形で礼拝を続けていく道を選択しまして、まだしばらくはこれが続いていくわけですが、今回の説教が、それがどういう考えに基づいているのかを明らかにし、皆さんが家庭礼拝を捧げていく上での参考になることを願っています。
  さて、皆さんは礼拝と聞くと、どこの聖書個所を思い浮かべるでしょうか。私はと言えば、教会の誕生を記した使徒言行録2:1以降の箇所を思い浮かべます。来週はペンテコステですので、改めてこの箇所が礼拝の中で取り上げられることと思いますが、ここには、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」、突然弟子たちの上に聖霊が降って来て教会が誕生したと記されています。「一同が一つになって集まっていると」とは、「弟子たちが礼拝していると」という意味です。
  このことから窺えるのは、「教会の誕生日」に先立って既に弟子たちは礼拝を守っていたということに他なりません。より正確に言えば、礼拝を守っていた弟子たちの間に神様は聖霊を送り、まことの教会を誕生させてくださったのです。それゆえ、使徒言行録の伝えるところによれば、教会があって礼拝が生まれたのではなく、逆に礼拝があって教会が生まれたということになるわけです。このようにして礼拝から生まれた教会によって、やがて主の御言葉を記録した聖書が生み出され、様々な宣教活動が展開されていきました。礼拝から教会や聖書や宣教が生まれていったというこの事実を、私たちはまず押さえておきたいと思います。
  キリスト者が、礼拝という行為こそ教会の中心的な営みであり、信徒の守るべき最も大切な事柄であると教えられてきたのは、こうした順序があったからに他なりません。礼拝こそ教会の生みの親であり、「教会が存在する」ということは「礼拝が行われる」ということと同義語なのです。実に、礼拝によって、教会は今日まで存続してきました。
  それゆえ、礼拝学の分野で名高い今橋朗先生は、『礼拝を豊かに』という著書の中でこんな言葉を語っておられます。「公同礼拝をしない教会はありません。礼拝をやめたとき、教会は『教会であること』をやめたのです。むしろ、礼拝に集うところにこそ教会が成立しはじめるのだ、と言うことが出来ます。聖書の時代、そして二〇〇〇年に及ぶ教会の歴史全体が、神への礼拝を死守し続けたところの『神の民の礼拝史』だったのです」。
  今橋先生がこう語っておられるように、礼拝こそ教会の生命線であると言っても過言ではないでしょう。東京府中教会がこの新型コロナの危機の中にあっても礼拝の灯を絶やすことなく、家庭礼拝という形で礼拝を存続させてきたのも、こうした理由からに他なりません。もちろん、この新型コロナウィルスの脅威の中で人の命を守る最大限の対策を私たちは取らなければなりませんが、その上で今自分たちにできる礼拝を模索し、続けていくことも、私たちキリスト者の大切な使命だと言えるでしょう。礼拝の灯を守り続ける限り、教会は存続していくのです。
  礼拝こそ教会の生命線。礼拝が教会を生み出していく。しかし、では、そもそもなぜ私たちは神様を礼拝するのでしょうか。教会がそれほどまでに大切にして来た礼拝とはいったい何なのでしょうか。
  キリスト教礼拝、それは神様と人間との間で生じる交わりの出来事に他なりません。人間が人間であるために、私たちは礼拝を必要とします。しかし、神様の側から見ればどうでしょうか。はたして神様は礼拝を必要とするのでしょうか。このことについて、礼拝学者の越川弘英先生は『礼拝』という著書の中でこんな言葉を語っておられます。
  「結論的に言えば、神はご自身が神であるために何かを必要とする方ではありません。たとえ世界が存在せず、私たち人間が存在しないとしても、神は神でありつづけるのです。それゆえに神が礼拝を必要とすることもないはずです。人間からあがめられ、献げものを贈られ、賛美され、祈りをささげられることによって、初めて神が神となるわけではありません。もし神が神であるために人間によって礼拝される必要があるとすれば、それがはたして『神』という名に値するかどうかは聖書の視点から見てはなはだ怪しいと言わざるをえないでしょう。」
  しかし、それにもかかわらず、神様が私たちを礼拝に招いておられることを聖書は語っています。そして、神様が私たちとの出会いを大切にしてくださり、それを大いに喜んでくださるということも真実でしょう。キリスト者はおよそ二千年間にわたって神様のこの招きに与ってきました。古代イスラエルの時代からすれば、さらに長い間、神様はその民を招き続けてくださいました。礼拝はこのような神様の招きによって初めて成り立つ出来事なのです。
  では、神様が御自分では必要としない礼拝に私たちを招き続けてくださるということは、いったい何を意味しているのでしょうか。神様は何をしようとしておられるのでしょうか。この問いに対しては色々な答えがあると思いますが、先程の越川先生は、「端的に言って、私はこの招きの中に神の本質である愛が現れているのだと考えます」と述べておられます。以下、越川先生の言葉ですが、「神は全能者であり絶対者であって、ご自身の中に足りないものや欠けたものはありません。しかしまたその神の本質が愛であるがゆえに、神はご自分のお造りになった私たち人間に対して愛をもって接し、絶えず温かいまなざしを注ぎ、どこまでも関わりを持ちつづけようとされる方でもあります。人間とは本来、この神の愛によって創造され、この神との愛の関係に生きるものとして創造された存在なのです。
  神はご自身が創造されたものに対して無責任な態度をとる方ではありません。むしろ神は私たちに対して、いつでもどこにおいても、実にしつこく関係を持ちつづけようとされる方です。聖書の中に人間に対する神のそうした熱い関心、深い配慮を表す言葉が無数に記されていることを私たちは知っています。神は人を尋ね求め、人を招き、人と共に生きることを望まれます。神は人類の歴史、イスラエルの歴史、そしてキリスト教の歴史において、私たち人間と共に歩みつづけてくださいました。
  人はしばしば神を見失います。だからこそそのたびに人は神を捜し求めなければなりません。より正確に言えば、私たちが神によって捜し求めていただかなければならないのです。そしてそのように神が私たちを捜し求めてくださることのしるしこそ、神が私たちを礼拝に招いてくださるという出来事であると言えるでしょう。
  礼拝とはこのように私たち人間を愛しておられる神が、私たちをご自身のもとに招き、私たちと出会い、私たちが何ものであるか、私たちが誰と共に生きるべきなのかを想い起こさせてくださる神の愛のわざにほかなりません。人間は忘れやすい生き物です。そしていちばん大切なこととそうでないことをしばしば取り違えるあやまちの多い生き物です。だからこそ神は私たち人間が本来どのような存在であるかを想起する機会として、繰り返し行われる礼拝という恵みの場を設け、そこに私たちを招いてくださるのです。」
  少し長かったですが、越川先生の言葉を引用させていただきました。これで「礼拝とは何か」、「礼拝を通して神様は何をしようとしておられるのか」、「なぜ私たちは礼拝するのか」、そうした問いに対する答えがある程度明らかになったと思います。人間というものは自分勝手で、忘れっぽい、そして矛盾に満ちた存在です。しかし、そのような愚かさと弱さに満ちた存在であるからこそ、私たちは繰り返し神様との出会いの場をしっかりと確保し、私たちが拠って立つ「救いの岩」を確かめ、私たちの人生の原点を確認する必要があるのです。礼拝とは、そのような意味における私たちキリスト者の原点として備えられた恵みの賜物であり、本来の私たち自身を取り戻すための恵みの時に他なりません。私たちは礼拝のたびに神様の愛に立ち帰り、神様と人間との愛の交わりを立て直していくのです。「私たちが神を礼拝するのは、功利的な目的や実用主義的な目的のためではない。そうではなくて、神に愛されているがゆえに私たちは神を礼拝するのだ。……(中略)……礼拝は、愛のもとにとどまるという出来事である」という礼拝学者ウィリアム・ウィリモンの言葉をしっかりと心に刻みたいと願います。
  さて、このような礼拝を私たちは主日のたびに神様にお捧げしているわけですが、ここでもう一つ確認しておきたい大切なことがあります。それは、礼拝というものが「私と神様」という関係だけで捉えられる個人的な行為では決してないということです。ジャック・ゴティエというカトリックの神学者が、ある本の中で、「神様の愛はどこまでも広がっていく性質を持っている」といった趣旨のことを語っていましたが、その神様は他でもない私を愛し、礼拝へと招いてくださっているだけではなくて、私の隣人をも愛し、礼拝へと招いてくださっています。私は礼拝に共に集えない今だからこそ、この事実をしっかりと確認したいと思うのです。
  その意味で、今日はマタイによる福音書18:20の御言葉を聖書箇所に選ばせていただきました。イエス様は仰います。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と。礼拝というのは、主の名によって共に集まる行為です。そして、そこにイエス・キリストが臨在され、教会が生み出されていくわけです。
もちろん、私一人が主の名によって祈る時にも、神様は私と共にい給うことでしょう。しかし、イエス様はあえて「二人または三人が」と言われました。それは、隣人との愛の交わり、神様に愛された者同士の愛の交わりを大切にしなさいということです。「その愛の交わりの中心にいつも私がいるよ」とイエス様は仰っているのです。
  実に、礼拝とは、「わたしはまことのぶどうの木」と仰るイエス・キリストに皆で一緒に繋がっていく行為に他なりません。よく教会は「ぶどうの木」、「キリストの体」に例えられますが、私たちは礼拝を通して目に見える形でそうした教会を、愛の交わりを形作っていくのです。その意味で、礼拝とは「キリスト者が一つになる」ということであり、共に教会を造り上げるという営みであると言うことができるでしょう。
  それゆえ、私は新型コロナの影響で共に集えない、それぞれの家庭でしか礼拝を捧げることのできない今の状況の中にあっても、隣人という存在を意識して欲しいと思うのです。主日のたびに、今私だけでなく、教会の仲間を初めとした全世界の人々が礼拝に招かれている。愛の交わりに招かれている。その横の繋がりを意識して、その横の繋がりの中で礼拝を捧げて欲しい、そして、教会の仲間、地域の人々、世界中の人々のために執り成しの祈りをぜひ捧げて欲しいと思うのです。その時に、私たちは離れた場所にあっても心を一つにして豊かな讃美を神様にお捧げすることができるでしょう。そうして、しっかりと教会共同体を保っていくことが出来るでしょう。
  願わくは、この礼拝の一時、神様が聖霊を豊かに遣わして私たちの祈りや讃美を一つに結び付けてくださいますように。先の見えない中ですけれども、聖霊の力により、主に結ばれて、皆で一緒に神様に豊かな礼拝をお捧げしていきたいと存じます。

 
 
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