聖霊降臨節 第 2主日・三位一体主日 2020年6月7日(日)  礼拝・説教
 

「都合の良い神様像」
ヨハネによる福音書 14章 8〜17節 
北村 智史

 今日は、三位一体主日の礼拝を神様にお捧げしています。この三位一体主日は、父なる神様が御子イエス・キリストの復活と約束された聖霊の派遣を通して私たちの救いを確かなものとしてくださった、そのことを記念する日であり、ペンテコステの後に来る最初の主日がこれに当たります。毎年、この主日には、人智を遥かに超える仕方で私たちの救いを成し遂げてくださった三位一体の神様が褒め称えられます。
  しかしながら、この三位一体という教義を、私たちはどこまで理解しているでしょうか。実は「三位一体」という言葉は、聖書に出てくるものではありません。この言葉は4世紀のニカイア公会議(325年)で確定したキリスト教の教義として登場し(三位一体論)、後のキリスト教会においてキリスト教信仰の中心的な教義となりました。今日、多くの教派に分かれているキリスト教会は、この三位一体の神様を信じるという共通の信仰理解を持っています。すなわち、三位一体の神様を信じる教派であれば、他の教義との違いがあっても、それはキリスト教会であるということです。
  では、具体的に三位一体とはどういう教義かと言えば、それは、神様が「父なる神、子なるキリスト、聖霊」という三つの位格を有する唯一の神様として存在するという教義に他なりません。つまり、三人の別々の神様がいるというわけではなく、唯一の神様の中に三つの位格が相互に浸透している、そして三つにして一つの神様であるという教義です。三つの位格から人間に対する三つの関わり、交わりを持つ唯一の神様が三位一体の神様に他なりません。
  今、私は唯一の神様が三つの位格から人間に対する三つの関わり、交わりを持つと言いましたが、それぞれの位格の人間に対する関わり、交わりを申し上げれば、父なる神は天地を創造されました。天地創造の創造主なる神様であらせられます。そして、子なるキリストは、父なる神から生まれたまことの神様であるのと同時に、おとめマリアから生まれたまことの人であるイエス・キリストで、十字架の贖いにおいて、人間の罪を赦してくださる救いの神様に他なりません。そして、聖霊は人間の内面に働きかける神様の力であり、人間をきよめ、救いの完成へと導く神様です。このように、それぞれの位格における神様の働きがあるとされています。
  分かったような、分からないような、そんなややこしい教義ですが、要は神様というのは、私たちの理解を遥かに超えた、私たちの知識や理性では捉えきれない偉大な御方ということでしょう。けれども、私たちは自分でも知らず知らずのうちに、その神様を矮小化してしまうと言いますか、自分の理解の内に止めようとしてしまうことが少なくないように私には思えます。自分に都合の良い神様像を造り上げて、勝手に神様を分かったような気になっている、そんなことはないでしょうか。今日はそういうお話をしていけたらと考えています。
  さて、今日は聖書の中からヨハネによる福音書14:8〜17を取り上げさせていただきました。ヨハネによる福音書では、14章からイエス様の訣別説教が記されています。イエス様はこれから十字架と復活の出来事を経た後、天へと帰って行かれるわけですが、地上に残される弟子たちのためにこれらの説教を話されました。
  今日の聖書個所の直前の箇所、1〜7節は特に有名な場面で、葬儀などにもしばしば使われます。人間はもともと神様の御心に適う存在として造られましたが、アダムとエバが取って食べてはならないと神様から命じられていた善悪の知識の木の実を取って食べてしまった、いわゆる原罪の出来事以後、人は善悪を自分で勝手に判断して神様の御心とはかけ離れたこと、すなわち罪を犯してしまう、そんな存在になってしまったわけです。これがいわゆる「堕罪」と言われる出来事です。これにより、神様と人間との関係は破綻してしまいました。そのために、私たちが神様のもとで永遠の命に憩う場所というのは、もしかすると無くされていたかもしれない。けれども、イエス・キリストは十字架の上で私たちの罪を贖い、復活し、再び神様のいる天へと昇って行かれて、神様に執り成し、その場所をしっかりと用意してくださる。そうして、戻って来て、私たち一人ひとりを御自分のいる天に、神様の住まいに、迎えてくださる。こうして、すべての人々が神様のもとで、イエス・キリストと共に永遠の命に憩うようになる。そのことがここで言われています。
  そして、イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」という有名な言葉を述べられるのです。十字架で私たちの罪を贖われ、私たちに永遠の命を賜るイエス様こそ、父なる神様の御許に至る唯一の道であり、真理、命そのものである。イエス・キリストの十字架の贖いを信じる道の他に、私たちが救われる道、父なる神様の御許に至る道はない。イエス様はそう言われます。そして、御自分と父なる神様とが一体であることをお話になるのです。
  しかし、フィリポにはそのことが分かりませんでした。イエス様と父なる神様とは一体である、それゆえ、あなたたちはイエス様を通して父なる神様を既に見ていると言われたにもかかわらず、そのイエス様の言葉が理解できなくて、8節のように「主よ、わたしたちに御父をお示しください」とイエス様に訴えたのです。そんなフィリポに、イエス様はその無理解を嘆かれて、改めて御自分が父なる神様と一体であることを説明されます。
  イエス様とフィリポのこのやり取りは、決して今の私たちと無関係ではありません。「直接肉眼で神様を見たい。そうすれば満足できて神様を信じることができるのに」というフィリポのこの願いというのは、すべての信仰者が一度は心に抱く願いではないかと私は思います。苦難の時ほど私たちはそう願うことでしょう。しかし、私たちは神様を直接仰ぎ見ることはできません。イエス様に目を注いでこそ、父なる神様を豊かに仰ぎ見ることができるのです。苦難の時こそ、堅く神様への信仰に立つために、私たちはイエス様に目を注がなければならない。この事実を、私たち、しっかりと心に刻んでおきたいと願います。
  さて、このようにイエス様は御自分を通して父なる神様を仰ぎ見ることを弟子たちにお教えになったわけですが、ヨハネによる福音書14:15〜17ではさらに御自分の昇天後、神様が聖霊を弟子たちに遣わしてくださって、それにより、弟子たちが神様、イエス・キリストと共にあることが可能になること、また神様、イエス・キリストについて知ることが可能になることが述べられています。
  結局、今日の聖書個所では、神様を知るためにイエス様に目を注がなければならないこと、また聖霊の啓示を受けなければならないことがイエス様の口を通して語られているわけですが、私はこの認識は、今の私たちにとって非常に大切なものだと思います。なぜなら、今の私たちの信仰を振り返る時、イエス様に目を注ぐでもなく、聖霊の啓示を待つのでもなく、自分の都合の良いように自分勝手に神様を解釈している、そうしたことが少なくないように見受けられるからです。
  実際、ここで我が身を振り返ってみて、私たちは自分でも無意識の内に神様のことを、自分を甘やかしてくれる存在、または自分に都合の良い恵みを与えてくれる存在と見なしてしまってはいないでしょうか。このことに関連して、礼拝学者の越川弘英先生やジョン・バークハート先生は、それぞれの著書の中で、信仰においても消費者根性と言いますか、ギブアンドテイクの精神、そうしたものが入り込んでくる現代人のあり方に警鐘を鳴らしておられます。つまり、現代人は神様を、自分を都合よく甘えさせてくれる存在、また都合よく自分の願望を叶えてくれる存在として信じ、神様に要求ばかりする、そして、自分が甘えられたり、要求が叶えられたりしている内は神様のことを信じるけれども、そうでないとたちまち信仰に躓き、神様を信じるのを止めてしまうと言うのです。
  それは結局のところ、自分に都合の良い神像を造り上げてそれを礼拝しているにすぎない脆い信仰でしょう。つまりは、偶像崇拝です。偶像崇拝というと、なんだか聖書の神ヤハウェ以外の神様を神様としているような、そんな印象を受けますが、たとえ聖書の神ヤハウェを礼拝していても、そのように偶像崇拝的にヤハウェを礼拝しているということが私たちにはあるのです。そこにあるのは、自分のために神様を利用しようとする態度であり、神様に仕えるのではなく、神様を仕えさせようとする態度です。神様を自己実現のための手段と見なす精神です。私たちは自分の願望のために神様をも利用しようとします。いかにも神様を崇めているような姿を取りながら、その実、神様を自分の願いが叶えられるために仕えさせようとする。御利益宗教とはすべてこういうものですし、偶像崇拝の精神もこれに他なりません。そして、私たちは神様が自分の期待通りに動いてくれない時、ひそかに、また公然と神様を憎むのです。このような罪深い心、すなわち、いかにも神様を崇めているような恰好を取りながら、その実、自分の思いを神様に押し付け、神様を自分の願いどおりに動かそうとする心を私たちが十二分に持っていることを、私たちは絶えず意識しなければなりません。
  ここで旧約聖書のヨブ記に思いを馳せれば、この書物に登場するヨブという人物は、信仰について私たちに大切なことを教えてくれています。恵みを与えてくれるから神様を礼拝するというのではない。たとえ自らに災いが臨んだとしても、神様は神様であるがゆえに神様を礼拝する。「神様を礼拝する」というのはそういうことだと、ヨブは苦難を通して知ったのでした。神様はまことに神様であるがゆえに、聖なる唯一の方であるがゆえに、こちらの状況のいかんにかかわらず、私たちが礼拝を捧げるべきお方である。恵みを与えてくれるから、その神様を礼拝するというのは、偶像崇拝の精神です。まことの神様を神様とすべし、偶像崇拝を避けよと十戒の第一戒は命じています。私たちはその命令に、素直に耳を傾けなければなりません。
  なぜなら、そこにこそ、私たちのまことの命があるからです。偶像崇拝の精神、そこには、小さく細き神様の御声に静かに心の耳を澄ますという姿勢や、自分が神様に裁かれる者として立つという姿勢がありません。イエス・キリストに自らの罪を贖っていただいた者として、悔い改めるという姿勢や、私の思いではなく、神の国と神の義がなることを第一に求めていくという姿勢がありません。しかし、こうした姿勢があってこそ、私たちは初めてまことに人間らしく生きていくことができるのでしょう。
  願わくはこの礼拝の一時、自分が心の中に思い描いた都合の良い神像を神様が打ち砕いてくださいますように。イエス・キリストに目を注ぎ、聖霊の啓示を豊かに受けて、まことの神様を礼拝していきたい。そして、その神様のもと、豊かに悔い改めて本来のあるべき自分自身に生まれ変わっていきたい。そうして、神の国と神の義の使命に積極的に生きていきたいと願います。
  祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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