2020年6月21日(日) 聖霊降臨節 第 4主日 合同礼拝説教
 

「信仰者のあり方」
 詩編 16編 7〜11節 
北村 智史

 今日は聖書の中から詩編16:7〜11を取り上げさせていただきました。この詩編の冒頭には、「ミクタム。ダビデの詩」と記されています。この「ミクタム」というのが何を意味しているのか、実ははっきりしたことは分かっておりませんで、「石板に刻まれた文章」のことを指しているのだとか、色々なことが言われています。問題は次の「ダビデの詩」という言葉でして、これはつまりこの詩編16編がダビデによって作られたものであるという意味なのでしょうが、現在の大多数の研究者は、この詩編の作者がダビデであることを否定しています。旧約聖書の世界では、およそ法的なものはモーセ、知恵的なものはソロモン、音楽と歌はダビデの作品として権威づけるという習慣がありましたから、この詩編もダビデの作品ということにして人々に権威を感じてもらおうとしたのでしょう。
  しかし、だからと言って私は、この作品がダビデとまったく無関係なものと考える必要はないと思うのです。おそらくこの詩編16編の作者は、ダビデを意識しながらこの詩編を書いたのではなかったでしょうか。その意味では、この作品はダビデのものではないにせよ、ダビデだったらこういう詩編を作るだろうという古代の人々の思いと言いますか、ダビデが古代の人々にどのような人々として考えられていたのか、そうしたものが垣間見える作品になっていると思うのです。
  こうしたことを踏まえた上で改めて今日の聖書個所を見てみますと、そこには神様に対する信頼の思いが溢れています。ダビデが、神様に対する信頼の人と見られていたことが良く分かります。ダビデと言えば、ユダヤ人の間で最も尊敬されている王様であり、この人の子孫からメシアが出てくるとされていることからも分かる通り、特別な位置づけを与えられている人ですが、このようにダビデが人々に特に尊敬されたのも、こうした神様に対する信頼のゆえだったのかもしれません。ダビデこそ、神様に愛された神様の御心に適う人物、理想的な王様、信仰者の模範、人々はそう考えていたのでしょう。
  しかし、ここで気を付けなければならないことがあります。ダビデが神様に愛された神様の御心に適う人物であり、理想的な王様であり、信仰者の模範であるということは、彼が誤りや欠点のない人であったという意味では決してないということです。聖書を読めば、このダビデがバト・シェバという人妻を気に入り、その夫をわざと戦場で戦死させて自分の妻にしたという、とんでもない話が出てきます。このダビデの行為について、聖書は、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」とはっきり記しています。これを読む限り、ダビデを完全無欠の人物と考えることはできません。
  しかし、ユダヤ人の間では、ダビデは理想的な王様、信仰者の模範と考えられる。それは、誤りや欠点のない人という意味ではなく、神様との関係を生活の中心に据えて生きた人という意味に他なりません。既にお話しましたように、ダビデは決して完全無欠の人物ではなく、いつも神様の御旨通りに生きた人物というわけでもありませんでした。もちろん御心に沿って生きるべく努めたでしょうが、このダビデもまた禁断の木の実を食らったアダムとエヴァの子孫です。その意味で、彼が大きな罪を犯したことが聖書に記されていることは大変示唆に富んでいると言わなければなりません。
  しかし、彼は神様がお遣わしになった預言者ナタンに己の罪を指摘され、神様の御前に悔い改めました。そして、人生の最後に至るまで神様との関係を中心にして生きたのです。彼が理想的な王様、信仰者の模範と考えられるのはこのためです。ダビデにおいては、神様との関係がその生活の中心を成していた。この一点において、ダビデは神様に愛された神様の御心に適う人物と考えられているのです。
  私たちもまた、このダビデに倣う者でありたいと願います。ここで私たち自身のことを振り返ってみれば、私たちもまたアダムとエヴァの原罪を受け継いだ罪人であり、どれほど神様の御心に沿って生きようとしても、それとは正反対のことをしてしまうと言いますか、神様の御心に反したことをしてしまう、そんな性質を生まれながらに持っています。ですから、私たちもまた生涯の中で、何度も何度も罪に零れ落ちてしまうことでしょう。しかし、そのような中にあっても、なお私たちは、神様との関係の中を生きたいと思うのです。神様の愛を信頼し、間違いを犯すたびに神様の御前に悔い改め、人生の最後に至るまで神様と向き合いながら生きていきたいと願うのです。それこそが、信仰者のあり方だと私は思います。
  よく信仰者のあり方と言えば、心と行いに非の打ちどころのない完全無欠の人物となることだと考えられがちですが、そうして少しでも過ちを犯せば、「それでもキリスト者か」と非難されてしまいがちですが、そんな人物になることが信仰者のあり方では決してありません。それは私たちには不可能です。
  ダビデもそうでしたが、聖書の中で義人とされたノアもヨブも、そんな人物ではありませんでした。聖書の中でノアは「神に従う無垢な人であった」と記されていますが、そんな彼もぶどう酒に酔っぱらって醜態を演じる話が聖書には出てきます。また、ヨブ記の中でヨブは神様に「無垢な正しい人」と言われていますが、そんなヨブも度重なる不幸に神様を激しく非難致します。二人とも、心にも行いにも非の打ちどころのない完全無欠の人物では決してありませんでした。間違いも犯します。けれども、この二人は最後まで神様との関係を生活の中心に据えて生きた人であった、それゆえに義人とされているのです。神様の目に義しいとされているのです。
  私たちもまた同じです。ダビデよりも、ヨブよりも、ノアよりももっとたくさんの過ちを私たちは犯すことでしょう。けれども、それでも私たちは神様に繋がっていたいと思います。神様の恵みに信頼し、神様の御前に悔い改め、人生の最後に至るまで神様との関係の中を生きていきたいと願います。その時、神様は私たちをも義としてくださることでしょう。そうして、私たちを御自分のもとに永遠に憩わせてくださることでしょう。
  願わくはこの礼拝の一時、私たち、神様との関係を中心にして生きていくその思いを新たにすることができますように。様々な誘惑にさらされ、様々な事柄に目を奪われがちな私たちですが、いつも神様を生活の中心に据える、そして神様との関係の中で生きていく、そのような信仰者のあり方で、救いに至る道を皆で一緒に歩んでいきたいと願います。

――以下、祈祷――

 
 
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