2020年6月28日(日) 聖霊降臨節 第 5主日 合同礼拝説教
 

「天国に行くための知恵」
 ルカによる福音書 18章 9〜14節 
北村 智史

 今日は聖書の中から、ルカによる福音書18:9〜14をお読みいただきました。ここで語られるイエス様のお話には、二人の人物が登場します。ファリサイ派の人と徴税人です。では、はたしてこの二人は一体どんな人たちだったのでしょうか。詳しく見ていきましょう。
  まずファリサイ派の人についてですが、ファリサイ派というのは、イエス様の時代にサドカイ派と並んで民衆に大きな影響力を持っていたユダヤ教のグループです。彼らは律法を守ること、特に安息日や断食、施しを行うことや宗教的な清めを強調しました。ファリサイ派というのは、「分離した者」を意味するヘブライ語の「ペルシーム」に由来する言葉でして、おそらく律法を守らない一般の人たちから自分たちを「分離した」ためにこの名前が付けられたのだろうと言われています。彼らは会堂で力を持ち、律法を研究し、民衆を教育し、さらに異邦人にも伝道を行いました。宗教にもっぱら関心を持ち、これを国民生活の主座に置くことに努め、民衆の間に深い信望を得ていたそうです。このグループの中から幾多の大律法学者を出し、まじめで高潔な人士も少なくなかったと言います。
  これに対して、徴税人は、イエス様の時代に非常に激しく嫌われ、差別されていた人々でした。実はイエス様の時代、人々は重い税金に苦しめられ、現場の徴税人が権力をバックに民衆から強引に税金を搾り取ったり、様々な不正によって自らの私腹を肥やしたりしていたのです。彼らはユダヤ人でありながら、ローマ帝国やその傀儡政権に仕えてそんな風に自分たちの同胞を苦しめていたために、人々から裏切り者と見なされて非常に大きな恨みを買っていました。敬虔なユダヤ教徒からすれば、穢れた異邦人であり侵略者でもあるローマ人に仕える、そうして自分たち同胞を苦しめて私腹を肥やす徴税人はまさに赦し難い存在だったのです。
  しかし、押さえておかなければなりませんが、一口に「徴税人」と言っても、ピンからキリまで様々な人がいました。まずローマ帝国の属州には「徴税請負官」がいます。彼らはローマ帝国の落札制度によって選ばれた雲の上の超エリートでした。もともとかなり裕福な地方の名士であり、属州の総督や貴族たちにも顔がきく人間でした。もちろん、そんな徴税請負官が直接徴税に手を染めることなどありえません。彼らは自分の有能な部下たちに厳しい取り立てを命令するだけでした。そして、その部下たちが必要に応じて「徴税人頭」を雇い入れたのです。つまり、徴税人頭は決して権力者の側につく人間ではなく、どこまでも中間管理職あるいは現場責任者といったところでした。しかし、やりようによっては、それなりの財産を築き上げることも可能なポストでした。かのザアカイは、まさにそのような人物だったと考えられます。
  そして、この徴税人頭がそれぞれの現場で働く徴税人たちを手配、あるいは下請けに手配を依頼しました。したがって、実際に現場で税金を集めていたのは、この一番下に雇われた徴税人たちだったのです。その多くは他の職業に就けない最下層の人たちの中から、奴隷あるいは日雇いとして集められてきたのでしょう。彼らはそれなりにやり手で押しが強かったのかもしれません。上から命じられるままに、あるいは自らぎりぎりに生きていくために、不当にお金を騙し取ったり、盗人のように振る舞ったりすることもあったのかもしれません。いずれにせよ、組織の末端に生きる徴税人は、財産を築き上げるどころかぎりぎりの生活を強いられ、さらには人々から蛇蝎のように忌み嫌われ、穢れた罪人と見なされました。人間的にも軽蔑されていたでしょう。今日の聖書個所に出てくる徴税人は、まさにこうした人物だったのです。
  そして、今日の聖書箇所でイエス様がお語りになる話では、人々から尊敬されていたファリサイ派の人が、その名声にふさわしく、自分を正しい人、完璧な人間と位置づけてこのように祈っています。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」。完全に徴税人を見下した言い方です。これに対して、徴税人は自らの罪深さを痛感していたのでしょう。目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とお祈りしました。
  イエス様は言われます。「言っておくが、神様に義とされて、すなわち正しいと見なされて家に帰ったのは、徴税人の方であって、ファリサイ派の人ではない」と。では、イエス様はこの譬え話を通して、何を仰りたかったのでしょうか。
  最後に「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とイエス様が仰っておられますから、このお話から、「高慢になるな、謙虚になれ」というメッセージを読み取ることは可能でしょう。しかし、それだけで終わってしまうなら、私たちは、イエス様が伝えたかったことを十分にくみ取れたとは言えないと私は思います。
  イエス様のお話によれば、人々から尊敬されていた、そして自分でも完全な人間だと誇っていたファリサイ派の人ではなく、罪人と蔑まれ、神様の御前に最も不完全な存在だと考えられていた、そうして自分でもそう考えていた徴税人が神様の御前に義とされました。その意味はこうです。私たちが神様の御前に完全な人間ということを考えた時、それはファリサイ派の人のような完全さとは違っているということです。ファリサイ派の人の完全さを、主は少しも認めておりません。それどころか、徴税人こそ神様の御前に完全な人間の姿だと主は言われるのです。
  ファリサイ派の人の生き方、それは神様の御前に、また人々の前に自分の業績を積み上げて、それを自らの誇りとする、そして自らの存在の拠り所とする生き方です。自分の業績が自分を救ってくれる、そう信じて生きる生き方です。イエス様は今日のお話の中で、その生き方を否定しておられるのです。その生き方では救われない、その生き方では天国に行けないとイエス様は仰っておられます。
  イエス様のこのメッセージは、今を生きる私たちにとって特に大切なものだと私は思います。なぜなら、今の私たちの社会には、業績至上主義の考え方が蔓延しているように思えるからです。私たちの社会では、学生の頃から自分の偏差値はこのくらいだ、どこそこの高校に行った、どこそこの大学に行った、そうしたことを積み上げて生きていくことを強いられます。社会に出ても、どこそこの会社に入ったとか、こんな職種に就いたとか、自分の肩書きはこうだ、自分の年収はこうだとかいったように、業績を積み上げることに躍起になります。そして、人よりも業績があればそれを誇りにし、なければ劣等感に苛まれるといった具合です。こんな風に業績がすべてと言いますか、自分の業績を存在の拠り所として生きているのが、私たち現代人の姿でしょう。
  しかし、そのような生き方では、やがて来る老いを前に行き詰まりを避けられません。自分の業績を拠り所として生きる者にとって、老いは絶望であり、恐怖です。やがて健康を奪われ、仕事はなくなり、すべては萎えたようになってくる。そのことを、どこでどうやって受け止めるのでしょうか。
  このことに関連して、長く仏教版のホスピス運動であるビハーラ運動に従事して来られた田代俊孝さんという方が、『ビハーラ 往生のすすめ』という著書の中で興味深いことを報告しておられます。老人ホームに住まわれている人たちの多くが、「こんなはずではなかった」、「本当の自分は家庭で家の中心にいるんだ。ここのいるのは仮の私なんだ」、「ここでは亡くなる順番を待つばかりだ」と、非常に虚しい思いで過ごしていらっしゃるというのです。
  誤解のないように言っておかなければなりませんが、それは、老人ホームの環境が劣悪だということでは決してありません。そうした施設というのは、むしろ大変設備が整っています。バリアフリー、冷暖房完備、三食昼寝付きでお誕生会とかお遊戯会もあるようです。しかし、それだけ至れり尽くせりになっている生活空間におられながらも、多くの方が「こんなはずではなかった」、「こんなはずではなかった」と言って生涯を終えていかれるというのです。行政が多額の予算を福祉に投入し、どれだけ高齢者が快適な環境で暮らせるようになったとしても、やはりそれだけでは私たちは心の充足感を得られないということを、このことから教えられます。私たちがこの生涯を終えていく時に、どこで「これで良かった」と言ってその生を終えていくのか、この問題が解決されなければなりません。
  田代俊孝さんの著書の中には、寝たきりの方のところへボランティアに行っている人からのこんな問いかけが紹介されていました。その方が訪問している先のおばあちゃんがいつも「死にたい、死にたい」と言うそうです。初めは周囲の注目を引くために仰っているんだと思っていました。けれども、よくお話を聞いてみると、「私はもうこんな体になってしまって、ちっとも役に立たない、間に合わない。最近は息子から邪魔者扱いされる。息子の嫁からうっとおしい目で見られる。最近は孫にまでばかにされるんですよ。私の生きる意味はどこにもない。早くお迎えが来てほしい」、あるいは「安楽死をしたい」というようなこと仰られる。それにどう対応したらよいかというお尋ねでした。
  このお話を聞いて思わされるのは、そこでは「いのち」が役に立つか、立たないか、どれだけのことができるか、できないか、そういう物差しで計られているということです。おばあちゃん自身は役に立たない、何もできない「いのち」だから自分は死んだ方がましだとこう思っておられますし、家族の息子さんたちは役に立たない、何もできない、負担ばかりかけるおばあちゃんは生きる意味がないんだとこう考えておられるわけです。このように、現代では「いのち」というものが業績で計られて、結果、多くのお年寄りが「死にたい」、「死にたい」、「こんなはずではなかった」、「こんなはずではなかった」と言って虚しい思いで過ごし、生涯を終えていかれる。こうした状況を見て、私は、現代人は「いのち」を見失っていると素直に思うのです。
  自分の「いのち」を業績で計る限り、また自分の業績を自らの存在の拠り所とする限り、私たちは救われないし、どこかで行き詰まりを避けられないでしょう。では、どうすれば良いのか。答えは簡単です。今日の聖書個所に出て来た徴税人のようになることです。自分が罪人であり、不完全であり、弱さも欠けもある人間だと知っている、そして年を取ればできないことも増えていく、そんな限界を持った存在だと知っている、その自分をそのまま神様にお委ねするのです。その時、神様はイエス・キリストの贖罪の愛で私という存在を優しく覆ってくださいます。そして、この上なく価高く、貴い存在と見なしてくださいます。後はその愛の御手の中で、心安らかに永遠の命をいただいていけば良いのです。
  天国に行くための知恵、それは自分の救いを業績に委ねないこと、神様の愛にすべてお委ねすることです。そのために、私たちは年を取っていく自分をありのままに神様にお委ねするだけの勇気を持たなければなりません。「ありのままの自分」を受け入れられないで「見てもらいたい自分」を演じ、無理をする。そして、「見てもらいたい自分」も演じられなくなれば、自分の存在価値を否定してしまう。その流れから、私たちは抜け出さなくてはならないのです。神様は私たち一人ひとりに、「あなたはそのままで宝石だ」と語りかけていてくださいます。人間の価値は、他人の業績と比べて相対的に決定されるものではなく、かけがえのない一人として不動のものだと呼びかけていてくださいます。いくつになっても、その愛を受けて光り輝きたいものです。
  最後に、坂村真民さんという詩人の「冬が来たら」という詩をご紹介して説教を終わりましょう。「冬」を人生の冬である高齢期に置き換えてみると、深い味わいがあります。こんな詩です。
  冬がきたら 冬のことだけ思おう 冬を遠ざけようとしたりしないで
  むしろすすんで 冬のたましいにふれ 冬のいのちにふれよう
  冬がきたら 冬だけが持つ 寒さときびしさと 静けさを知ろう
               ……(中略)……
  冬はわたしの壺である 孤独なわたしに与えられた 魂の壺である
  今は亡くなられた渡辺和子さんは、ある著書の中でこの詩を取り上げて、こんな言葉を語っておられます。「人生の冬――高齢期に入ったら、過ぎ去った季節のことをなつかしむのでなく、“暖房”を入れて、冬の寒さをまぎらわそうとしたりしないで、むしろ進んで『冬のたましい、冬のいのち』に触れようとすることこそが、大切なのだ。その時、冬は、冬だけが持つ宝、高齢期に入ってのみ味わえる『深さと、きびしさと、静けさ』を味わわせてくれる。かくて高齢期は、それまでに、その人が味わったすべての経験を融和し、意味づける“魂の壺”となる。人間は、『その青年時代は肉体で世界を捉え、壮年の時は心と知で世界を捉えるが、老年になると、魂で世界をつかまえようとする』と、いった人もいるが、本当にそうかもしれない。」
  こうした渡辺さんの言葉、また坂村さんの詩を思いますと、「老いる」ということもまた人生の中で大切な時期であり、天国という「まことのふるさと」に帰って行くために必要なプロセスなのかなと思わされます。自分の業績を自らの存在の拠り所として苦しむのではなくて、いつもありのままの自分を神様にお委ねして美しく老いていきましょう。そうして、やがては神様の御許で安らかに永遠の命に憩っていきたいと願います。
  祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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