2020年7月12日(日) 聖霊降臨節 第 7主日 合同礼拝説教
 

「自分の問題として捉える視点」
 ヨハネによる福音書 5章 1〜9節 
北村 智史

 7月第二主日の今日は、日本基督教団の暦では「部落解放祈りの日」とされています。この「部落解放祈りの日」についてご存じでない方もおられると思いますので、ここで改めて説明させていただきますと、1975年5月15日、日本基督教団は部落差別問題に関して公式会見を求められまして、当時の部落解放同盟の人権担当者、および大阪府と東京都の人権担当者から、日本基督教団内にひどい部落差別の事例が放置されたままになっていることが指摘され、大変なお叱りを受けました。教団としてはこの事実を重く受け止めて、1975年7月15日の常議員会で「日本基督教団部落差別問題特別委員会」の設置が決議されました。この特別委員会は発展的に解消して、1981年の「日本基督教団部落解放センター」の誕生に至ります。部落解放センターはこの原点を記念し、7月第二主日を「部落解放祈りの日」として、全国の教会・伝道所に部落解放を初めとしたあらゆる差別からの解放を課題とする礼拝を呼びかけています。
  こうして、「部落解放祈りの日」が日本基督教団の暦として正式に定められることになったわけですが、東京府中教会でもこうした部落解放センターの呼びかけに応えてこの日に特別の礼拝を行っています。部落差別問題を初め、あらゆる差別からの解放が祈りの課題とされ、差別の問題に切り込む説教や聖書研究が為されて、あらゆる差別に立ち向かう教会生活への奨励が為されているわけです。願わくは、神様が今日のこの礼拝を祝してくださって、私たちが差別の問題に立ち向かっていくためのよき知恵を与えてくださいますように、そうしてこの世界からあらゆる差別が無くなりますようにお祈りしています。
  さて、そんな「部落解放祈りの日」の今日は、聖書の中からヨハネによる福音書5:1〜9を取り上げさせていただきました。ここにはどんなことが書かれてあったでしょうか。今日のお話は、あるユダヤ人のお祭りの時に、イエス様がエルサレムに上られた時のものです。エルサレムには「ベトザタ」という池がありました。その近くの回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていたんです。なぜかと言うと、この池には時々天使が降りて来て、池の水が動くことがあり、その時に真っ先に水に入った者はどんな病気にかかっていても癒されたからなんですね。皆奇跡で病気を治して欲しくて、池の周りに集まっていたのでした。
  さて、そこに38年も病気で苦しんでいる人がいました。そんなに苦しんでいるのに、誰もこの人に関心を示さず、ほったらかしです。けれども、イエス様は別でした。イエス様はその人に関心を示し、その人を見、もう長い間病気であることをお知りになって、「良くなりたいか」と仰ったのです。すると、その人は、良くなりたいのに、水が動く時、誰も自分を池の中に入れてくれない、自分が行くうちに他の人が先に池に降りて行ってしまうその状況を訴えました。そんなふうにして38年も癒されることのなかった病人にイエス様は仰います。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。すると、その人の病気は癒されて、その人はイエス様のお言葉通り床を担いで歩き出しました。
  これが今日のお話です。皆さん、このお話を聞いて、どう思われるでしょうか。「ああ、イエス様、すごい力を持っておられるな。さすがメシア、神の子だな」と、奇跡を起こされるイエス様のそのお力を褒め称えるでしょうか。たしかに、イエス様の力に焦点を当ててその偉大さに感銘を受けるのも、今日の聖書個所の一つの読み方でしょう。しかし、私は今回、この箇所を読ませていただいて、この病人を38年間も苦しみ続けさせた人間の罪の方がどうしても気になったのです。
  この人を苦しみ続けさせた人間の罪、それは無関心です。この回廊にいた他の病人にとっては自分が癒されることだけが大きな関心事であり、38年間も癒されずに苦しむこの病人のことなどはまったくの他人事でしかありませんでした。きっと周りの人に、「なぜこの病人を助けてあげなかったのか」と聞けば、「なぜ自分がそんなことをしなければならないのだ。私たちは自分自身のことで精一杯なのだ」と答えたことでしょう。誰もこの病人を助けることを、「隣人を自分のように愛しなさい」という神様の掟を受けている自分の問題として捉えようとはしない、自分には関係のないこと、自分にそんなことをする義務などないはずだと決めつけている、その心がこの病人を38年間も苦しみの中に放置させたのです。
  今回、このお話を読みまして、私は38年間も苦しみ続けたこの病人が、今の世の中で差別に苦しみ続けている人と重なりました。皆さんもご存じのように、今アメリカでは、黒人男性が白人の警察官に首を抑えつけられ、殺害されたことをきっかけに、黒人差別に抗議するデモが各地で広がっています。「BRACK LIVES MATTER(黒人の命は大切だ)」、この言葉をスローガンにしてデモ行進が行われている様子が、連日のように報道されていましたが、しかし、こうした黒人差別というものは昨日、今日起こって来たものでは決してないのです。アフリカ大陸から奴隷として連れて来られ、南北戦争によって奴隷解放が実現しても、黒人たちは水を飲む場所も区別されたりと、ずっと差別され続けてきた。キング牧師などの公民権運動があっても、ずっとずっと差別に苦しみ続けてきたわけです。それは、38年どころではありません。
  日本でも先月、渋谷の辺りでしたでしょうか、アメリカの黒人差別に抗議するデモに連帯したデモ行進が行われていましたが、その中のある人が「差別は無知や無関心から生まれる」という言葉を掲げておられたのが印象的でした。人々の無知や無関心によって、黒人たちは38年どころではない、それよりも遥かに長い年月を差別に苦しみ続けてきたのです。
  今、私は黒人の例を挙げましたが、差別に苦しんでいるのは黒人たちだけでは決してありません。私たちが生きているこの世界には部落差別、在日外国人差別、セクシャルマイノリティの人々への差別、女性差別など、そうした差別に苦しむ人々が大勢います。そうした人々の無知や無関心により長年苦しみの中に置かれ続けている人々一人ひとりの姿が、私は今日の聖書個所に出て来た病人の姿と重なるのです。
  今日の聖書個所で病人を癒されたイエス様は、私たち一人ひとりに「あなたはどうするのか」と問うておられると私は思います。38年間、誰一人としてこの病人を助けることを、神様に従う自分の問題として捉える人がいなかった。自分には関係のないことだと決めつけていた。その生き方に倣うのか、私と同じようにこの病人に関わっていく生き方、手を差し伸べていく生き方を選ぶのか、イエス様は問うておられます。私たちは今差別という苦しみの中に置かれ続けている人々に積極的に関わっていく生き方を通して、イエス様のこの問いかけにしっかりと答えていかなければなりません。
  今日の聖書個所を読みまして、私はイエス様に、「人の痛みを自分の問題として捉える視点を持ちなさい」と言われているような思いがいたしました。「38年間病気で苦しみ続けている。それはその人の問題、他人事、私には関係のないこと」、そんな風に考えている限り、この世界に苦しみは無くなりません。差別の問題も同じです。良く差別の問題では、「それは差別されている人の問題だろう。だから、差別されている人が運動していけばいいんだ。私には関係がないよ」、そうした認識が見られることがありますが、これは大きな誤りです。
  このことに関連して、上智大学の出口真紀子先生は、差別の問題をマイノリティの側の問題として捉えるのではなく、マジョリティの側の問題、マジョリティの側が意識を変えていかなければならない問題として捉えることを提案しておられます。私は本当にその通りだと思うんですね。差別の問題を、「それは差別されている人が自分で何とかしなければならない問題なんだ」と考えている限り、この世界から差別は無くならないでしょう。マジョリティの側が、「これは自分の問題だ。自分が意識を変えていかなければならないんだ。そうして関わっていかなければならないんだ」と思わない限り、差別の根絶は難しいのです。
  長年差別という病気に苦しむ人々が大勢いるこの世界のただ中で、それを「自分の問題として捉える視点」を広めていきたいと願います。そうして、イエス様と共に、この世界からあらゆる苦しみをなくしていきましょう。
  お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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