2020年7月26日(日) 聖霊降臨節 第 9主日 礼拝説教
 

「違和感を大切に」
 ローマの信徒への手紙 13章 1節 
北村 智史

 今月の5日は都知事選挙の日でした。誰に投票しようか決めるために、送られてきた公約を妻と二人でじっくりと読んだのですが、変な人も多いんですね。一夫多妻制を実現するとか、大麻を合法化するとか、訳の分からないことを書いている候補がいるかと思えば、在日ヘイトを高らかに歌い、日本の戦争責任を問う歴史観を自虐史観として否定する、そういう歴史修正主義に溢れた候補がいたりして、何だこれはと思わされました。蓋を開けてみれば、現職の小池百合子さんが再選ということで、それに関しては色々な意見があることと思いますけれども、私は、さっき申し上げた在日ヘイトを高らかに歌う歴史修正主義に溢れた候補が18万票も獲得して5位に入っていたことに驚かされました。今、巷では在日外国人に対するヘイトが溢れていますが、そんな人を支持する人が18万人もいるかと思うと本当にうんざりした気持ちになりまして、間違ってもそんな人に政治を任せるわけにはいかないと強く思わされました。
  そうでなくとも、今は腐った政治が横行している世の中です。新型コロナの対策では後手後手に回り、「森友学園」を巡る公文書改ざん問題では、そんな風にして総理に忖度したことで人一人が責任を感じて自殺しているにもかかわらず、調査済みだ、再調査はしないと言って、総理を初め与党の人が逃げ回る。政権寄りの人を検察のトップに据えようとあれこれ画策したかと思えば、その人が賭けマージャンで辞任する。そして、それも不起訴になる。ここ何か月かの政治を振り返ってみても、私たち国民が馬鹿にされているような思いがいたします。しかし、そんな政治を許してしまっているのは、他でもない私たち国民なのでしょう。私たちがしっかりと政治に関心を持ち、選挙で信頼のできる政治家を選んでいく、そして、必要な時には声を挙げていく、その責任を痛感させられます。
  その意味では、今日選ばせていただきました聖書箇所、ローマの信徒への手紙13:1は、皆さんにとって首を傾げたくなる御言葉かもしれません。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」。こうした文章を読みますと、まるでパウロが私たちに、世俗の権威を神様の権威の代表と考えて無批判にこれに従うよう勧めているように感じて戸惑ってしまいます。「お上に逆らうな。それは神様に反逆する行為だ」。そう言われているみたいです。「王権神授説」というような言葉がありますが、では、はたして、この世の権威は本当に神様によって立てられたものであり、いついかなる場合にも正しい存在なのでしょうか。それゆえ、私たちはこれを批判してはならないし、これに逆らってはならない、無条件、無批判に従っていかなければならないのでしょうか。
  結論から言いますと、私はロマ書13章に記されているパウロの言葉を、そのような意味に捉えてはいません。ロマ書13章の御言葉は、決して神様の権威によって国家権力に絶対的に、また盲目的に服従するよう私たちに要求するものではないと考えています。これらの御言葉を解釈する時には、パウロがどのような文脈でこのように語ったのかということと、パウロの手紙全体の文脈とを、きちんと把握しておかなければならないでしょう。
パウロがロマ書を書いたこの当時は、宗教的にも政治的にもラディカルな人々がしばしばローマ帝国内で過激な行動を起こし、壊滅の憂き目に遭うといった事態が繰り返されていました。ロマ書13章の言葉は、あくまでもこうした人々、すなわち国家そのものを否定し、暴力的な手段に訴えては自滅の道を辿っていたラディカルな人々を念頭に置いて語られたものに他なりません。こうした立場の人々に対決して、そのようなことをしないように、「上に立つ権威に従う」ように書かれたものなのです。
  それゆえ、この言葉は、ラディカルな行動が流行っていた特殊な状況の中での具体的な指示として語られたものであり、国家などの権威一般に対するキリスト教的理解を主張したものではありません。したがって、この言葉だけを捉えて、パウロがすべてのキリスト者・教会に対して国家権力への絶対的、盲目的な服従を説いたと考えるのは早計だと言えるでしょう。
  パウロは現実の国家が恐ろしい悪を行い、過ちを犯し得ることを良く知っていました。何よりもパウロが仕える主イエス・キリストが、十字架に架けられた方、つまり国家の手によって処刑された方だったのです。また、パウロは今日の聖書個所で、国家そのものを否定して暴力的な手段に訴えるラディカルな人々に反対し、国家への敬意と服従を説く一方で、同じロマ書12:2で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と語っています。キリスト者が本質的には国家に対しても、その時代に対しても完全に独立した存在であり、常に批判的立場に立つ者であることを教えているのです。
  このように、パウロが国家を重んじよと人々に呼びかける一方で、それと吻合、癒着せずに自主独立の立場を保てと勧めていることも私たちは忘れてはなりません。フィリピの信徒への手紙3:20には、「わたしたちの本国は天にあります」とありますが、キリスト者にとって、国家は決して絶対的なものではないのです。絶対的なものはただ神様のみであり、国家はこの神様の御心に適ったものであるかぎり、重んじられる。しかし、もしも国家が神様の御心に明らかに反するようであれば、使徒言行録5:29でペトロと他の使徒たちが語ったように、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と言わなければならないというのが、パウロの思想だろうと思います。
  キリスト者は、ただ神様のみを絶対的なものとする。それゆえ、国家がこの神様の御心に適ったものである限りはこれに服従するが、国家がこの神様の御心に逆らう場合には、これに抵抗する権利と義務が生じてくる。私たちは今日の聖書個所を前に、このような認識を持たなければなりません。
  今回、ロマ書13:1について色々と考える中で、改めてそのような認識をさせられたわけですが、その時に私は、フランク・パヴロフという人が書いた『茶色の朝』という絵本を思い出しました。この絵本をご存じでない方もおられると思いますので、簡単にその内容を紹介すれば、この絵本は、すべてが「茶色だけ」に染められていってしまう物語です。
ある国で「俺」と「シャルリー」が平和な日常を過ごしているのですが、ある時に「ペット特別措置法」なる法律が作られて、茶色以外の猫が処分されてしまいます。「俺」は驚き、胸を痛めますが、科学者や国などの権威筋がそう言うなら「仕方がない」と思い、やがてその痛みを忘れていきます。その次に、茶色でない犬が「安楽死」させられるのですが、「俺」は驚き、「悲しいものだ」と思うものの、犬だって「15年も生きれば、いずれその時がくる」のだから「あまり感傷的になっても仕方がない」と事態を受け入れていきます。「なにごともなかったように」話すシャルリーを見て、根拠もないのに「きっと彼は正しいのだろう」と思い、「妙な感じ」が残り、「どこかすっきりしない」ところが残っているのに、それ以上深く考えようとはしないのです。
  やがて「ペット特別措置法」を批判し続けた新聞が廃刊になり、「茶色新報」を読むしかなくなった時も、「俺」は「うっとうしい」と思いつつ、「競馬とスポーツネタはまし」だから、まあいいだろう、と諦めます。批判的な新聞を発禁にすることに疑問を持っても「ビストロの客たち」が「いままでどおり自分の生活を続けている」のを見て、「きっと心配性の俺がばかなんだ」と自ら疑問を封印してしまいます。そして図書館や本屋から批判的な書物が強制撤去される頃には、「茶色に染まることにも違和感を感じなくなって」しまうのでした。
  こうして「俺」は、「茶色に守られた安心、それも悪くない」と考えるようになります。「茶色の猫といっしょなら安全だ」、「少なくとも、まわりからよく思われていさえすれば、放っておいてもらえる」、「街の流れに逆らわないでいさえすれば、安心が得られて、面倒にまき込まれることもなく、生活も簡単になる」。「俺」と「シャルリー」はそう考えて、自分から進んで茶色の猫、茶色の犬を飼い始め、お互いにそれを見せ合って笑い転げます。街で何が起きているかにはすっかり無関心になり、「チャンピオンズカップの決勝戦」をテレビで見ながら、「すっかり安心して」、「すごく快適な時間」を過ごすのです。死んでしまった犬のために泣く必要なんかない、「白いプードル」ではなく茶色の犬を飼えばいい、何も「悪いこと」をしなければ、「規則を守って」さえいれば、「安全」だし、「安心」なんだ。
  皮肉なことに、そんな確信に満たされたかと思った瞬間、彼らの「安全」と「安心」は全面的に崩壊します。「信じられないこと」が起こるのです。「ペット特別措置法」が過去にさかのぼって適用され、「前に」茶色でない犬や猫を飼っていたすべての人間、したがって、「犬や猫を愛する人間は全員逮捕されてしまう」かもしれない、そんな恐ろしい事態になるのです。
  ここまで来て、「俺」は激しく後悔します。「茶色党のやつらが最初のペット特別措置法を課してきやがったときから、警戒すべきだったんだ」。「いやだと言うべきだったんだ。抵抗すべきだったんだ」。ところが、この期に及んでもなお、「俺」の心の中には警戒しなかった自分、嫌だと言わなかった自分、抵抗しなかった自分を弁明するための理由が次々と浮かんできます。「政府の動きはすばやかったし、俺には仕事があるし、毎日やらなきゃならないこまごましたことも多い。他の人たちだって、ごたごたはごめんだから、おとなしくしているんじゃないか?」しかし、そんな言い訳をしている「俺」に最後の瞬間がやって来ます。日もまだ昇っていない「茶色の朝」に、自分を逮捕しに誰かがやって来てドアをけたたましく叩くのです。「そんなに強くたたくのはやめてくれ。いま行くから」。物語はここで終わります。結局、「俺」は最後の瞬間、「茶色の朝」に至っても、「いま行くから」と、自ら状況に合わせていくことを止めませんでした。
  この絵本の物語を、皆さんはどう思われるでしょうか。ここに出てくる「茶色」は、ナチスとか、ファシズム、全体主義、そうしたものを象徴しています。ナチスの時もそうでしたが、ファシズム、全体主義、危険な政治、そうしたものはある日突然成立するものでは決してありません。一応「民主主義」が前提の社会では、人々がそうしたものに至る芽を見過ごしたり、それに気付いて不安や驚きを覚えながらも、様々な理由から危険な動きをやり過ごしたりしていくことによって成立するのです。
  この『茶色の朝』の物語が、現代の日本社会に生きる私たちにとっても決して無縁ではないことは既に明らかだと思います。強者の論理を振りかざし、外国人や女性や障がい者への差別発言を繰り返す政治家が人気を博したり、メディアが特定の国への敵意を煽り、その国に繋がる人々が陰湿な嫌がらせ、暴力、暴言の標的になったり、学校で国旗、国歌への忠誠が強制され、反対する先生たちが権力的に処分されたり、権力による個人情報の一元的管理、盗聴、メディア規制など、国民統制を可能にする法律が次々に成立したり、「国を守る」戦争の時には国民の人権が制限され、一定の犠牲が出てもやむをえないとする法律が制定されたり。「ファシズム」や「全体主義」という用語を厳密に適用できるかどうかは別としても、現代の日本社会にはそれらに繋がる排外主義、差別主義、国家主義への強い傾向が確実に存在しています。つまり、物事を「茶色」に染めていく傾向が存在しているわけです。
  そのような中で、私たちもまたこの絵本に登場する「俺」や「シャルリー」のように、時には戸惑い、時には呆れ、時には不安や疑問を感じながらも、結局は様々な理由をつけて、その流れをその都度受け入れてしまってはいないでしょうか。私たちが持ち出す理由、言い訳は、様々です。「仕事があるし」、「他にやりたいことがたくさんあるし」、「被害者にあまり同情的になっても仕方がないし」、「権威筋の話にも一理あるように思えるし」、「みんな今まで通りの自分の生活を続けているのだから、自分の心配しすぎかもしれないし」。「国が決めたんだから、仕方がない」。こんな風にして、私たちは自分が感じる違和感に蓋をしてしまいます。そして、物事を「茶色」に染めていく流れを容認していくのです。はたして、その先には何が待ち受けているでしょうか。気が付いた時には抵抗もできない手遅れの状態の未来が待っていたとしても何も不思議ではありません。
  今のこの日本で「茶色の朝」を迎えないためにも、私は今の政治に感じる違和感を大切にしたいと思います。驚きや不安、疑問、そうしたものを自ら封印し、それ以上考えないようにする思考停止を止めたいと思います。自分の違和感を大切にし、なぜそのように思うのか、その思いにはどんな根拠があるのか、そうしたことを考え続けていきたい。そして、勇気を持って発言し、行動していきたいと願います。それこそが、私たちキリスト者の大切な使命でしょう。願わくは、この国の政治がまことに神様の御心に適ったものとなりますように。権力を監視する預言者としての使命を豊かに果たしていきたいと願います。
  祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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