2020年8月2日(日) 聖霊降臨節 第 10主日 礼拝説教
 

「平和は過去に目を向けるところから」
 イザヤ書 59章 1〜2節 
北村 智史

 今日は平和聖日の礼拝を神様にお捧げしています。毎年、この時期になりますと、先の戦争のことが思い出されます。6日、9日の広島、長崎の原爆の日、また15日の敗戦記念日が近づいてくるわけですが、こうした出来事を思いますと、もう二度と戦争の過ちを犯してはならないということを強く思わされてなりません。見渡せば至るところに分断、分裂のある今の私たちの世界ですが、平和聖日のこの日、神様が世界中の人々の結びつきを強めてくださって、皆で一緒に平和を実現していくことができますよう、祈りを合わせて参りたいと願います。
  さて、そんな今日は、聖書の中からイザヤ書59:1〜2をお読みいただきました。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」。この御言葉から始まっていくイザヤ書の59章では、執拗にイスラエルの人々の罪と裁きが語られています。非常に厳しい印象を受ける聖書の個所ですが、その背後にあるのは、罪と密接に関係したイスラエルの歴史と救いについての認識に他なりません。
  この認識について理解するために、少しこのイザヤ書について説明をさせていただきますと、今の聖書学者の間では、この書物は1〜39章を第一イザヤ、40〜55章を第二イザヤ、今日の聖書箇所が含まれています56〜66章を第三イザヤというふうに、大きく3つのまとまりに分けて考えられるのが一般的になっています。それぞれ見ていきますと、まず第一イザヤはB.C.8世紀後半にエルサレムで活動した有名な預言者イザヤの預言とその活動を主な内容としています。続いて、第二イザヤですが、これはB.C.539年にペルシャがバビロンを占領するその直前から活動を始めて、バビロン捕囚からイスラエルの人々が帰ってくる時には彼らを先頭に立って導いたイザヤとは別の預言者 ――名前が分からないので、第二イザヤと仮に呼ばれていますが―― この預言者の預言集になっています。最後に第三イザヤですが、これは少し複雑でですね、バビロニアによって壊されたエルサレムの神殿がまた建てられるB.C.515年の前後に活躍した、第三イザヤと仮の名前で呼ばれているまた別の預言者の預言を中心にして、B.C.6世紀半ばから5世紀後半に至る様々な時代の預言を、ある人物が集めて編集したものだと考えられています。このように見ていきますと、イザヤ書という書物が非常に特殊でですね、 ――たとえばパウロの手紙であれば、パウロがその手紙を書いた時がその手紙の時代ということになるのですが、―― イザヤ書の時代というものが、預言者イザヤの時代からその思想の影響を受けた第二イザヤ、第三イザヤの時代まで、ほぼ300年という長期に渡っていることが分かります。
  では、この間のイスラエルの歴史とはどのようなものだったでしょうか。それは、B.C.722年にアッシリアによって北イスラエル王国が滅ぼされ、B.C.587年にはバビロニアによって南のユダ王国が滅ぼされ、その後のバビロン捕囚、ペルシャ帝国の支配と、他の国々による侵略と支配の連続でした。こうした歴史に直面して、イスラエルの人々は、神様が自分たちにしてくださった救いの約束とはいったい何だったのか、どうして約束されたはずの神様の救いがいつまで経っても自分たちの所にやって来ないのかという悲痛な問いを抱かざるを得ませんでした。
  今日の聖書箇所、イザヤ書59:1〜2には、「主の手が短くて救えないのではない。/主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。/むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」と記されていますが、この御言葉に象徴されているように、イザヤ書では、第三イザヤだけでなく、第一イザヤから第三イザヤまで一貫して、イスラエルの人々が抱くこの悲痛な問いに対する答えとして、「それは神様が救おうとされないのでも、神様に救う力がないのでもない。他の国々に侵略され、支配され続ける自分たちのこの歴史は、むしろ人々の方が罪を犯し、懸命に救おうとされる神様に背いて、救いから遠ざかって行った結果なのだ。しかし、神様は何としてでもこのように罪によって背いた人々を御自分のもとに、また救いへと立ち返らせたいと願っておられる。だから罪を離れ、神様のもとに立ち返って、救いに至ろうではないか」というメッセージが、時には非常に厳しい裁きの言葉も交えながら語られています。実に、イザヤ書で語られているしつこいくらいの罪と裁きの言葉は、人々に徹底的に自分の罪と向き合って神様のもとに立ち返ることを促す、救いへの懸命な招きの言葉に他なりません。イスラエルの人々は、荒野をさまようような辛い歴史のただ中で、自らが犯した過去の罪にしっかりと目を留め、これを悔い改めるところから明るい未来に向かって進んで行こうとしたのでした。
  このことに関連することですが、私が同志社大学で神学を学んでいた頃、ある先生が、ユダヤ人は歴史の流れを後ろを向きながら前へ向かって進んでいく民族だといったようなことを話しておられたことがあります。歴史を天地創造から終末まで一直線に進んでいく直線で捉えるならば、ユダヤ人というのはその流れを、たえず後ろ、過去の方を振り返りながら現在を修正し、未来に向かって進んでいく民族だというのです。イザヤ書を読めば、本当にその通りだなと思わされる先生の言葉ですが、では、私たち日本人はどうかということを考えた時に、私はユダヤ人のこの歴史観というものは、他でもない私たち日本人が尊敬を持って学ばなければならないもののように思われてなりません。
  8月に入り、先の戦争について振り返る日々が続いています。それは、ただ単に過去にこうした悲惨な出来事があったのだなあと、過去の戦争のことを記憶に留めるだけの日々では決してありません。悲惨な過去を胸に刻み、もう二度と同じ過ちを繰り返すまいと心に誓って、今を、そして未来をどのようにしていくかということを考える、そんな日々です。そして、その中で今の日本人の有り様に思いを馳せるにつけ、私は、私たち日本人が今までどれほど過去の戦争の過ちに真剣に向き合ってきたか、疑問に思わされるのです。
  たとえば、日本の教育です。今からおよそ5年前の2015年に、私は東京同宗連の研修旅行でタイに行き、泰緬鉄道のことについて学びましたが、連合軍の捕虜6万人と現地労務者25万人を強制労働させて、何万人もの死者を出しながら完成させたこの鉄道のことなど、私は恥ずかしながらそれまで存じ上げていませんでした。日本の教育の中で学んで来なかったのです。その時に、私は日本の歴史教育についてですね、特に現代史の負の部分を日本はきちんと子どもたちに教育しているのかについて大きな疑問を持ったわけですが、このことに関連して、予備校で「政治・経済」の教科を担当しておられた経歴を持つ内坂晃牧師がある著書の中でこんな言葉を語っておられます。
  「私は数年前、予備校で『政治・経済』の教科を担当していました。それで教科書のどの分野が、共通一次試験によく出されているかを調べて驚いたことがあります。それは『戦後の国際政治』という分野からは、過去数年一度も出されたことがないことに気付いたからです。入試に出ないとなると、学校でも教師は力を入れてそこを教えません。そこはとばす教師だっているでしょう。生徒も一生懸命、そこを勉強しようとはしません。かくして、現代史の知識のまるでない大学生が大量生産されていくことになります。これはたまたま私が調べた過去数年だけが、偶然そうであったにすぎないのでしょうか。私はそこに何か意図的なものを感ぜずにはおれません。みなさまはいかがお考えになられるでしょうか」。
  このように語られる内坂先生が予備校の講師をしてらしたのがおそらく30年くらい前のことだと思うのですが、私が学生時代を過ごしていた約20年前もまったく同じような状況だったと思います。現代史、特に戦後のことに関しては、歴史の授業で付け足しのようにサラっと学ぶだけでほとんど取り上げられなかったように記憶しています。そんな風にして戦後史はほとんど教わらなかったし、戦前、戦中の日本の戦争犯罪についてもどれだけのことを教わったか甚だ疑問です。こうした状況は、今の学生も変わらないのではないでしょうか。この辺り、日本の教育は、歴史の授業でまず現代史から学ぶドイツの教育とは大きくかけ離れているように私には感じられます。
  こうした日本とドイツとの違いについて、かつて朝日新聞ボン支局のある特派員がこんな報告をしておられましたのでこれをご紹介しましょう。これは、1987年に元ナチス副総統のルドルフ・ヘスが亡くなった時の報告です。
  「教育・文化の分野に至っては、日独の差は気の遠くなるほど大きい。西独の親たちは子供が戦争ごっこをやることにさえ極めて神経質だ。百貨店のおもちゃ売り場で戦争の道具を見ることは少ない。暴力や戦争の美化につながるような書籍、映画、ビデオなどが一般の目に触れることもほとんどない。第二次大戦の戦死者の霊をまとめて慰める記念の場所もいまだに作られていない。大統領をはじめ政治家たちは、ことあるごとに『過去を忘れるな』と繰り返す。それはもう、特派員仲間の一人に言わせれば『ドイツ人たちは、反省と自分を責めることに生きがいを持っている。まるでマゾヒズムだ』というほどのものだ」。
  日本とドイツの違いがよく分かる報告です。この報告と併せてもう一つご紹介したいのが、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が1985年5月8日にドイツの敗戦40周年にあたって連邦議会で行った演説です。『荒れ野の40年』というタイトルで本になっていますので、読まれた方も少なくないかもしれません。この中で、ヴァイツゼッカー大統領はナチスの犯した犯罪に触れ、次のように述べています。
  「この犯罪に手を染めたのは少数です。公の目にはふれないようになっていたのであります。……戦いが終り、筆舌に尽くしがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配すらも感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。……罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。心に刻み続けることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」
  過去の罪責にきちんと目を向け、これを心に刻み付けるところから平和の未来、和解の未来を築いていこうとする決意が見てとれます。この辺り、未だに従軍慰安婦などの過去の戦争犯罪を認めていない、そして、過去の罪責にしっかりと目を向けようとする歴史認識を「自虐史」と呼んで否定しようとする人が多くいる日本とは大きな違いです。
  先程申し上げた内坂晃先生は、ある著書の中でこのヴァイツゼッカー大統領の演説を取り上げ、『荒れ野の40年』というタイトルに大きく注目してこのように語っておられます。「これ(『荒れ野の四〇年』)はいうまでもなくドイツの戦後四〇年の歩みを、あのモーセにひきいられたイスラエルの荒野の旅路になぞらえてつけられたものでありますが、日本と同じように奇跡的な経済復興をなしとげたといわれる戦後ドイツの歩みを『荒れ野の四〇年』と見たその目、それは戦後一〇年そこそこで『もはや戦後ではない』などということがいわれた日本人の目とは根本的に違う視点を持つ目であります」。
  内坂先生がこのように語っておられるように、私たち日本人にどれだけ物質的繁栄の奥に自らの罪責を見、それを心に刻んで共に負って行こうとする姿勢があるでしょうか。ドイツ人とは違い、日本人が10年やそこらで、アジアの和解ということを棚上げにしたままで「もはや戦後ではない」と語ったのはとても象徴的です。結局のところ、私たちは今に至るまで、物質的繁栄に目をくらまされて、皆で過去の戦争責任を負っていくのを蔑ろにしてきたのではなかったでしょうか。そのツケが、いまアジアの至る所に存在する分断、分裂という形で私たちにのしかかってきているのだと思います。
  ヴァイツゼッカー大統領は言いました。「心に刻むことなしに和解はありえない」と。和解や平和は過去に目を向け、これを心に刻むところから始まっていきます。願わくはこの8月、私たち、しっかりと先の戦争の罪責と向き合うことができますように。過去の罪責を心に刻み、これをしっかりと悔い改めて、今を修正していきたい、そうして、明るい平和な未来を共に築いていきたいと願います。
                祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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