2020年8月9日(日) 聖霊降臨節 第 11主日 礼拝説教
 

「人間の蒙昧さ」
 ルカによる福音書 23章 32〜34節 
北村 智史

 本日、8月9日は長崎原爆の日です。今から75年前の今日、1945年8月9日午前11時2分に、長崎の町は米軍機から投下された一発の原子爆弾により、壊滅的な被害を被りました。家々は吹き飛び、炎に包まれて、黒焦げの死体が散乱する中を多くの市民が逃げ惑いました。凄まじい熱線と爆風と放射線は、7万4千人もの尊い命を奪い、7万5千人の負傷者を出し、かろうじて生き残った人々の心と体に、75年経った今も癒ることのない深い傷を刻みこみました。
  毎年、この日が近づくにつれ、テレビや新聞などのメディアでは、当時の様子、また被爆体験のお話などが報道されます。こうしたお話を伺うたびに、原子爆弾がもたらす被害の悲惨さを思い知らされて、本当に二度とこのような悲劇を繰り返してはならないことを強く思わされるのです。今年は新型コロナの影響で規模が大幅に縮小されるということですが、それでも長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催されるということを聞いております。いつだったでしょうか、過去のこの式典で述べられた長崎平和宣言の中で、市長の田上富久さんが、今も世界には1万6千発以上の核弾頭が存在している現実に触れて、「核兵器の恐怖は決して過去の広島、長崎だけのものではありません。まさに世界がかかえる“今と未来の問題”なのです」と話しておられたのが印象に残っています。私たち、核兵器に溢れたこの世界の中を、「核兵器廃絶」に向けてしっかりと歩んでいかなければならないと、その時強く思わされました。
  この意味で、核兵器によって国の安全を守ろうとする考えを依然として手放そうとせず、核兵器の禁止を先送りしようとする国々があることに憤りを感じます。その影響で、今から5年前にニューヨーク国連本部において開催されたNPT(核兵器不拡散条約)再検討会議では、最終合意文書を採択できないまま決裂となってしまいました。この会議では、他でもない日本が、アメリカの「核の傘」の下にあることを重要とする立場から、アメリカに配慮して、唯一の被爆国であるにもかかわらず核兵器禁止文書に賛同しなかったのですから、これは本当に恥ずかしいの一言に尽きます。あれからおよそ5年が経ちましたが、今も核軍縮は一向に進んでいません。人間の罪の深さ、そして愚かさを思わされます。このように核軍縮が停滞している今のこの状況の中で、私たち、神様の平和を祈り求めるキリスト者として、「核兵器廃絶」の声をしっかりと挙げていきたいと願っています。
  さて、このように長崎原爆の日の今日、私たちは核軍縮を一向に成し遂げられない私たち人間の罪、愚かさに嫌が上でも直面させられるわけですが、そんな日にこそ読みたいと思ったのが今日の聖書箇所、ルカによる福音書23:32〜34でした。
  これは、イエス様が十字架につけられた時の場面です。これを読めば分かる通り、イエス様は二人の犯罪人と共に十字架につけられました。ここに描かれているのは、人間による神様殺しの瞬間であり、人間の罪が最も深く現れた瞬間です。しかし、この時にイエス様の口を突いて出たのは、裁きの言葉でも呪いの言葉でもなく、慈愛の言葉でした。何とイエス様は、罪深い人間が最も赦すべからざることを御自身にしたその瞬間に、「父よ、彼らをお赦しください」と、父なる神様に執り成しの祈りをお叫びになったのです。
  私はここに、イエス・キリストの愛の深さ、その偉大さを見る思いがいたします。かつてイエス様は、その伝道の生涯の中でたびたび赦しについて語られました。また、弟子たちに敵を愛し、自分たちを迫害する者のために祈れとお教えになりました。それを十字架のこの場面で実践されるとは。イエス様においては、言葉と行いに何の乖離も見られません。
  これを私たちと比べると、イエス様の偉大さがよく分かるでしょう。なるほど、私たちもイエス様に従う者として、同じことを人に語ることはできます。けれども、私たちにそれをどこまで実行できるかは甚だ疑問です。かつてパウロは、ロマ書7:15の中で、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」と自らの罪について語りましたが、これが私たち人間の限界なのでしょう。どれほど頭の中でこうすべきだと分かっていても、どれほど立派な信条を普段から教えとして口ずさんでいても、なかなかそれを貫徹できない、いざという時にはそれと正反対のことをしてしまう。これが悲しいかな、私たち人間の性質です。
  けれども、イエス様においては、そのような言葉と行いとの間の乖離は一つも見受けられませんでした。愛と赦しの入る余地が一つもないと思えるような十字架の場面においても、イエス様は赦しと愛敵の教えを実行されたのです。そして、その限りない慈愛によって、今も私たち人間を新しく生まれ変わらせようとなさいます。また、「父よ、彼らをお赦しください」、この祈りには、執り成しによって私たち人間を罪から救う、まさにメシアと呼ぶにふさわしいイエス様の限りなき愛の性質が現れています。私はイエス様のこの祈りに、神の子の偉大さを見て取る思いがするのです。
  しかし、それだけではありません。イエス様の祈りには続きがあります。イエス様は十字架の上でこのように祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。イエス様のこの祈りから教えられるのは、イエス様を十字架につけた人間の罪、それは人間の蒙昧さであったということです。
  イエス様を十字架につけた人々、それはとんでもない悪人などという訳では決してありませんでした。彼らは彼らなりの正義をきちんと持っていたのです。彼らは、イエス様が自らを神の子として、神様を冒涜していると信じていました。そんなイエス様を放っておけば、いずれ自分たちに神様から大きな災いが降される。人々はそう信じていたでしょう。また、このままイエス様の運動を放っておいて、これが大きくなると、自分たちを支配しているローマ帝国から目をつけられて自分たちユダヤ民族が滅ぼされてしまう、彼らはそんな危機感にも苛まれていました。ですから、彼らにとってイエス様を殺すことは、自分たち民族を救う正義の行いと映っていたのです。
  彼らにとって悲劇なのは、自分たちの行いが、実は神様殺しであるという事実が分からなかったことです。その意味で、イエス様を十字架につけた人々は悪人というよりはむしろ蒙昧な人々でした。
  勘の鋭い人なら、この蒙昧さがパウロの中にも見られたことに気付かれるでしょう。パウロがまだサウロと呼ばれていた頃、彼はキリスト教徒たちを迫害しましたが、それは邪悪な気持ちからでは決してなかったのです。パウロはユダヤ教の信仰に対して極めて真面目に、そして熱心に献身していました。彼は自分の行いが正しいと信じて疑わなかったでしょう。彼がキリスト者を迫害したのは、彼が悪人だったからではなく、魂に照明がなかったからなのです。
  人は皆、自分なりの、勝手な正義に生きています。そして、しばしば自分でも気が付かないうちに誤りに入り込むのです。今日は長崎原爆の日ということで、話の冒頭、核軍縮について、また平和についてお話ししましたが、こうした人間の蒙昧さの罪は、今日の兵器についての考え、また平和についての考えに顕著に現れているように私には思えます。
  広島、長崎、これらの悲劇を経験しても、未だに核を持つこと、また核の傘にあることが平和を生み出すのだと熱心に信じる人々がいるのです。金正恩は演説で、「核抑止力で、国家の安全と未来は永遠に固く保証されるだろう」と核保有を正当化、放棄に応じない立場を明らかにし、アメリカ、ロシアといった主要な核保有国も核を手放さず、日本もアメリカの核の傘にあることを安全保障の要として核兵器禁止文書に賛同しない。中国はどんどんと軍事費を増大させ、軍拡こそが自国を繁栄させ、自国に平和をもたらすのだと信じて疑わない。そして、軍事力を用いて各地の実効支配に乗り出している。これらは、何という蒙昧さでしょう。私たちが生きているこの世界には、どれほど人間の蒙昧さが溢れていることでしょうか。
  こうした人間の蒙昧さを、かのキング牧師もある説教の中で嘆いていて、こんな風に語っています。「ある人々は、いぜんとして、戦争が世界の諸問題に対する解答だと思っている。彼らは悪人ではない。むしろ逆に、彼らは善人であり、尊敬すべき市民である。彼らの抱いている観念は愛国心という衣装に包まれている。彼らは瀬戸際政策と恐怖の均衡を唱える。彼らは、軍備競争を続けていくことが有害な結果よりは有益な結果を産むのに役立つと本気で考えているのだ。彼らはもっと大きな爆弾、もっと大量の核兵器貯蔵、もっと高速の弾道ミサイルをと熱心に要求する。しかし、われわれは、経験による知恵から、戦争などはもう時代おくれだと知るべきである。……人生は生きるに値し、人間には生存の権利があるとするなら、われわれは戦争に代わるものを発見しなければならない。運搬手段が大気圏外を突進し、誘導弾道ミサイルが成層圏に死のハイウェーを切り開いて進むような時代に、戦争で勝利を博しうる国家はどこにもない。いわゆる限定戦争も、人間の苦しみ、政治の混乱、精神的な幻滅という悲惨な遺産のほかには、ほとんど何も残さないだろう。世界戦争は、人類が自分たちの愚かさによって、待てしばしなく早々と死に絶えてしまったという事実を無言のうちに証しするものとして、くすぶる灰を後に残すだけだろう。それでもまだ、軍縮は悪であり、国際交渉は唾棄すべき時間の浪費である、と本気で考えている人々がいるのだ。われわれの世界は原子兵器によって絶滅するだろうという無気味な予想におびやかされている。それは、自分たちが何をしているのかわからずにいる人々が、今もって多すぎるからなのだ」。
  キング牧師の時代からおそよ半世紀以上が経過しましたが、彼が嘆いた状況は今も変わるところがないどころか、ひどくなっている印象さえ受けます。ここで思うのですが、これまで、私たちはこんな思い違いをしてこなかったでしょうか。「世界を危機に直面させるのは、ヒットラーのような悪人である」と。裏を返せば、「そんなとんでもない悪人が出てこない限り、私たち人類は滅びることがない」と、私たちはどこかで高を括って来なかったでしょうか。しかし、ここで私たちははっきりと認識しなければなりません。世界終末時計の針を推し進めるのはそんな悪人ではなく、むしろ善良な市民だと。核に代表される兵器に自らの平和と生存を賭けようとする善良な市民、自分たちが何をしているのか分からずにいる蒙昧な、しかしごく一般の人々こそが、世界を危機に直面させるのです。
  そのような中にあって、私たち教会は神様の知恵を語らなくてはなりません。イザヤ書2章には、終末、すなわち神の国がこの地に成し遂げられる日の平和について、このように述べられています。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」。この御言葉は、核兵器を初めとしたすべての武装の解除に至る軍縮こそ神様の御心であり、私たちが平和を成し遂げる唯一の方法であることを私たちに教えてくれてはいないでしょうか。
  兵器こそ、自国に平和と繁栄をもたらす手段である。戦争こそ、問題を解決するための手段である。そんな人間の無知、蒙昧さが吹き荒れる今のこの世界のただ中で、私たち、神様のこの知恵をどこまでも広く訴えていきたいと願います。かつてキング牧師は語りました。「教会は、社会における道徳の最高の守護者として、人々に対し、善良であり、よき志を持つよう訴え、心やさしく、良心的であることを賞揚しなければならない。しかし、教会は、場合によっては、一歩進んで、人々に対し、知性と善と良心を欠いていれば、野蛮な暴力が恥ずべき十字架刑をもやってのけるようになることを警告しなければならない。また教会は、人々に対し、聡明になるという道徳的責任があることを、想起させるのに倦み疲れてはならない」と。願わくは、長崎原爆という、十字架と並ぶほどの深い人間の罪が行われたことを記念する今日のこの日、私たち、この使命をはっきりと自覚したいと思います。人間の蒙昧さが二度と愚かな悲劇を生み出すことのないように、しっかりと神様の知恵を宣べ伝え、社会を啓蒙していきたいと願います。皆で一緒に人間の蒙昧さの罪を克服し、神の国にふさわしい社会を、また平和を打ち建てていきましょう。
         お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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