2020年8月16日(日) 聖霊降臨節 第 12主日礼拝説教
 

「他の宗教を裁かない」
 ヨハネの手紙一 5章 1〜5節 
北村 智史

 今日は、聖書の中からヨハネの手紙一5:1〜5を取り上げさせていただきました。この箇所を詳しく見ていく前に、まずは簡単に、このヨハネの手紙について説明をしておきましょう。
  新約聖書にはヨハネの手紙一、二、三と、ヨハネの手紙が3つ収録されていますが、これらヨハネの手紙とヨハネによる福音書は、用語や概念、文法的特徴や思惟構造が極めて似ておりまして、ヨハネ文書と呼ばれ、同じ教会の中で成立したと考えられています。しかし、ヨハネの手紙とヨハネによる福音書とでは、同時に違いもありますので、同じ著者が書いたとは言えないようです。そして、福音書の方がまず先に記されて、その後にヨハネの手紙が書かれたと考えられています。
  先程、私はヨハネによる福音書とヨハネの手紙では違いもあると言いましたが、その最も大きな違いは、ヨハネによる福音書が、教会の外との対立が執筆の状況になっているのに対して、ヨハネの手紙が、いずれも教会の内部に起こった分裂を前提にして執筆されているということでしょう。
  つまり、詳しく述べれば、ヨハネによる福音書の時代には、教会はユダヤ教シナゴーグと緊張関係にあり、ユダヤ教から大きな迫害を受けていました。ヨハネによる福音書は、その中で、キリスト教の信じる独り子なる神イエス・キリストを鮮明に確認し、自分たちの信仰が正しいものであることを述べて教会の人々を励ますため、また未だにユダヤ教とキリスト教との間で信仰的に揺れ動いている人々に信仰の決断を促すために書かれたものに他なりません。これに対して、ヨハネの手紙は、一、二、三の三つとも、教会の内部に起こった異端の問題に対応するために書かれています。
  つまり、ヨハネ文書が書かれた教会をヨハネの教会とすれば、このヨハネの教会をまず第一の危機としてユダヤ教からの迫害が襲い、この時期にヨハネによる福音書が記された。そして、その後、この福音書の読み方について福音理解の誤りが生じ、異端の問題がヨハネの教会を第二の危機として襲った。そこで、これに対応するためにヨハネの手紙が書かれたのでした。時代としては、ヨハネによる福音書が80年代後半から90年頃に書かれ、ヨハネの手紙が1世紀末前後に書かれたと考えられています。なお、ヨハネの手紙一、二、三の著者がすべて同一人物とは限りませんが、彼(もしくは彼ら)がユダヤ人キリスト者であり、ヨハネの教会で指導的位置にあったことは間違いないでしょう。
  さて、このようにヨハネの手紙は異端の問題に対応するために書かれたわけですが、では具体的にヨハネの教会にはどのような異端の問題があったのでしょうか。それは、この手紙を読めば明らかになります。「反キリスト」(一2:18)、「偽預言者」(一4:1)と批判されるべき、誤った教えを宣べ伝える偽りの教師たちが教会の人々を惑わしたのです。彼らはイエス様が神の子、メシアであることを否定し、さらにイエス・キリストの受肉を否定しました。そして、不品行に溢れたこと、特に兄弟愛を欠いた行いをやりたい放題したのです。ヨハネの手紙一2:19に「彼らはわたしたちから去って行きました」と書かれているように、ヨハネの手紙は既にこうした異端者が教会から出て行った後に書かれたものと考えられています。しかし、ヨハネの教会にはまだまだ異端に惑わされ、こうした教えに魅かれている者たちもいて、動揺は落ち着いていませんでした。そこでヨハネの手紙一では、ヨハネの教会の人々に、彼らが経験した異端による分裂の神学的な意味を明らかにし、教会に踏み止まり、正しい福音理解に基づいて教会を再建するよう呼び掛けが為されています。
  こうしたことを踏まえた上で改めて今日の聖書個所を読めば、その意味がよく分かるでしょう。ここには、異端者と異なり、イエス様がメシアであると信じる者こそ「神から生まれた者」、すなわち神の子であると語られています。そして、正しい信仰を持ち、神様を愛する人は皆、その神様によって神の子とされた者同士愛し合う、即ち兄弟愛、隣人愛に生きると語られています。このようにして、ヨハネの手紙一の著者は、イエス様がメシアであることを否定し、兄弟愛に欠いた不品行をやりたい放題していた異端者の教えを否定し、正しい信仰、また正しい信仰者のあり方を読者に伝えたのです。そして、イエス様こそメシアであると信じ、互いに愛し合う自分たちこそ、神様の掟を忠実に守る存在であり、今のこの世の中は外部からの迫害があり、教会の内部には異端による分裂があるけれども、こうした正しい信仰を持つ私たちこそ最後には悪しき世に打ち勝つのだということ、このことを信じるのが教会の正しい信仰なのだということを力強く訴えました。
  私たちはこれを読むと、正しい信仰から正しい愛が生まれてくるのだということ、またどれほど世の中が乱れても、そのような正しい愛や信仰こそ最後には勝利を収めるのだということを教えられます。また、「神の掟は難しいものではありません」という言葉からも、大きな示唆を与えられます。人間が自分の力で愛を行おうとすると困難になり、負担になる。けれども、お互いにイエス・キリストにより罪を赦された喜びを持って互いに分かち合い、これを原動力にして愛し合う時、私たちは愛し合うことが容易になり、重荷ではなく喜びとなるのです。
  今回、ヨハネの手紙一5:1〜5を読ませていただきまして、私はこのように改めて色々な大きな示唆を与えられたわけですが、しかし同時に危うさのようなものも感じました。イエス様を信じる者こそが神の子であり、その人たちこそ「世に打ち勝つ」というこのヨハネの手紙の言葉が、ともすれば今のこの世界の中でイエス様を信じる者だけが救われるといったような偏狭な解釈に陥りはしないか、そして他の宗教を裁くものとなりはしないか危ぶまれたのです。
  この世の宗教の中でキリスト教のみが正しいのだ、イエス・キリストを信じるキリスト者のみが救われるのだ。昔のカトリックでは「教会の外に救いなし」ということが言われましたし、今もプロテスタントの保守派などの間ではそうしたことが言われていますが、色々な宗教が共存していかなければならない時代に、そのように排他的に自らの絶対性を主張する考え方は軋轢を生み出すのではないか、私たちはこのことを真剣に考えねばなりません。
やはりそうした懸念からでしょう、第二バチカン公会議以降はカトリックも、キリスト教の優位性は主張しながらも、他の宗教にそれなりの真理を認めるという包括主義と呼ばれる立場を取っています。
  では、私はどうかと言えば、私は多元主義の考え方をしているんですね。つまり、宗教というのは絶対的な存在に対するアプローチの仕方だと考えています。絶対的な存在をヤハウェとしてこのようにアプローチすればキリスト教という宗教になり、また別のアプローチをすればユダヤ教という宗教に、また別のアプローチをすればイスラム教という宗教になる。あるいは絶対的な存在を仏としてこのようにアプローチすれば仏教という宗教になる。このように絶対的な存在に対するアプローチが違うだけで、目指す所は同じ。こういうふうにして宗教は一つに収斂されるのではないか。もちろんすべての宗教に真理があるという訳ではない、中にはいかがわしい宗教もあるのでしょうけれども、基本的にキリスト教以外の宗教にも真理はありえるだろうし、キリスト者以外の人も救いにあずかりうるだろうというのが、私の考えです。
  私がこのような考えに至ったのは、やはり同宗連の経験が大きかったと思います。人権を守るという一つの目的のために宗教の垣根を超えて連帯していれば、やはり他の宗教から学ぶところは大きいですし、他の宗教の中にも真実味があるのを実感します。そして、何よりも絶対者のもとにある命を守る、大切にするという点で、どの宗教も目指す所は同じなんだなということを痛感するんですね。
  もちろん、こうした多元主義的な考え方はあくまでも私個人の経験に基づく私個人の考えであって、これが絶対的なものだと言うつもりはありません。こうした私の考え方に批判的な方もおられるのは存じ上げております。また、最近は排他主義、包括主義の考えにも一定の意義を見出す論文も見受けられますから、単純に排他主義の考えよりも包括主義の考えが、包括主義の考えよりも多元主義の考えが進歩的で素晴らしいのだということは言えないのでしょう。
  しかし、少なくとも今回の説教で私が申し上げたいのは、宗教が他の宗教を裁いて争う時代はもう終わりにしなければならないということです。今は宗教間対話の時代、そして宗教同士が連帯してこの世の課題に取り組んでいかなければならない時代でしょう。東京同宗連に関わっていれば、同じ目的の下、異なる宗教が一つに連帯し合うことの素晴らしさ、その力を実感いたします。願わくは、私たち、異なる宗教の人とも豊かに連帯し合い、この世の課題に真摯に取り組んで参りたい、そしてこの社会の中で大きな影響力を発揮していきたいと願います。そのようにして、今のこの日本に溢れる、宗教は危険といったような偏った認識を皆で一緒に変えていきましょう。そうして、宗教こそ社会の役に立つのだ、宗教こそ人間にとって必要なものなのだという認識をどこまでも広めていきたいと願います。
                祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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