2020年8月23日(日) 聖霊降臨節 第 13主日礼拝説教
 

「愚かたれ」
 コリントの信徒への手紙一 1章 18〜25節 
北村 智史

 ただ今、私たちは教会の暦では、「聖霊降臨節」と呼ばれる期間を過ごしています。この時期は「教会の半年」と呼ばれていまして、アドヴェントから復活節が終わるまでの「主の半年」と呼ばれる期間の後に来る半年間のシーズンがこれに当たります。、「主の半年」が、イエス・キリストの御生涯を思い起こし、そこに現れた恵みを心に刻むシーズンであるのに対して、この「教会の半年」と呼ばれるシーズンは、「主の半年」で心に刻んだイエス・キリストのその恵みに応えていくことが課題とされます。すなわち、聖霊降臨節の今は、教会が聖霊の導きの下に宣教に励んでいく期間となっているわけです。
  では、皆さんにお聞きしますが、「宣教」とははたして何でしょうか。それは、「伝道」とどう違うのでしょうか。『キリスト教大事典』で「伝道」という項目を引きますと、そこにはこのように記されています。「伝道:キリストの福音を、未知未信の人々に伝え、その人々を信徒とする教会のわざをいう。現在では宣教という用語が同じ意味で用いられることが多い。両者を区別する場合には、宣教は教会のすべての働きを包括する広義のものとして、伝道は未信者を信徒にすることを直接目的とする働きに限定して用いられる」。つまり、「伝道」と「宣教」、両者を区別するならば、未信者を信徒にする、そうして信徒の数を増やす働きを「伝道」と言うのに対して、「宣教」はその他にも教会の色々な働きを含むと言うのです。
  であるならば、教会が聖霊の導きの下に宣教に励んでいくという時、私たちはただただ単純に信徒の数を増やすことばかりを考えていればそれで良いという訳ではありません。この世界には至る所に神様の御心とはかけ離れた罪の現実、不正義の現実が広がっています。そうした現実に関わり、この世界に神様の正義を実現させていく働きをしていくことも、神様から託された私たち教会の大切な使命であり、人々の心に福音の光を届けるために必要不可欠なことなのです。
  今、日本基督教団では盛んに「伝道力の回復を!」といった具合に「伝道、伝道」ということが叫ばれていますが、その一方で、「宣教」という言葉がほとんど用いられなくなってきているように私には思えます。信徒の数を増やすことばかりが強調され、それだけが教会のやるべきことと見なされて、この世界の現実に積極的に関わっていくという視点が見失われつつあります。これは非常に由々しきことです。
  そうした中にあって、私は「宣教」という言葉を私たち教会の大切な使命としていきたいと願っています。信徒の数を増やすことばかり考えて、この世界の現実に何も関わらない、そんな教会はやがて社会から見捨てられてしまうことでしょう。この世界に神様の御心を為していく、そうしてこの世界に積極的に貢献していく、そんな働きを豊かに為してこそ、教会は人々に歓迎され、人々の心に福音の光を届けることができるのです。この聖霊降臨節の時期、「教会の半年」と呼ばれる期間、私たち、聖霊の導きに自らを委ねてしっかりと「宣教」に励んでいきたいと願います。
  さて、聖霊降臨節第13主日の今朝は、コリントの信徒への手紙一1:18〜25をお読みしました。皆さんはこれを聞いて、どの御言葉が印象に残ったでしょうか。私はと言えば、18節の御言葉が最も印象に残りました。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。ここで言われている「十字架の言葉」というのは、イエス・キリストが十字架で死なれた、その事実と意味を告げ知らせる教会の福音の言葉を指しています。パウロによれば、この福音の言葉は、滅びに向かって現に進み続けている人々と救いに向かって現に進み続けている人々によって、異なる受け取り方をされると言います。前者は福音の言葉を「愚かなもの」と見なし、後者はそれを「神の力」と見なすと言うのです。
  では、なぜ滅んでいく者は、イエス・キリストの十字架を告げ知らせる福音の言葉を「愚かなもの」と見なすのでしょうか。それは、彼らがこの世の知恵、罪を持った人間の知恵にすっかり毒されているからに他なりません。彼らは弱肉強食こそこの世界の真理であり、そんな中で自分が上になり、他の人々を支配するようになることこそ救いだと信じています。そんな彼らからしたら、ローマ帝国の残酷な処刑方法で見せしめのように殺されたイエス様、この世の中で最も力のない姿となられたイエス様こそ救い主であるという論理は、馬鹿馬鹿しくて受け入れられないのです。もしも神様が、当時のユダヤ人たちが待ち望んでいたように、かつてのダビデ王のような華々しいヒーローのようなメシアをお遣わしになって、付き従う人々を皆支配者の位につけ、この世的な繁栄に与らせていたならば、教会の福音がそんなメシアの到来を告知するものであったならば、彼らは喜んでキリスト者となったことでしょう。けれども、実際は、神様はすべての人々の罪を背負って十字架の上に死に、私たちの罪の贖い、救いを成し遂げるメシアとしてイエス様をお遣わしになった。そんな風に、メシアが私たちの上に立つどころか、私たちのさらに下、まさにどん底の極みにまで下って行って救いを成し遂げられたなんていうロジックは、彼らにとっては信じるに値しない、まさに「愚かなもの」以外の何物でもないのです。
  しかし、このロジックを受け入れることのできる人々にとっては、十字架の福音はまさに「神の力」です。なぜならそれは、愛の力でこの世界を変えていく可能性を大いに秘めているからです。イエス様が十字架というまさにどん底にまで下って、そのように御自分を犠牲にしてまで私たちの救いを成し遂げてくださった。この福音の事実は、これを受け入れる人々にある変革を促します。弱肉強食の価値観を離れて、自分も人の下に立って仕え合う、そして傷むほど愛し合う道を歩んで行くように人々を変えていきます。そして、この愛によってこの世界を実際に変えていくのです。この意味で、イエス・キリストの十字架の福音は、自分の幸せだけを願い、互いに蹴落とし合う世界から、まことにすべての人々の幸せを願い、共に生きる世界へとこの世界を変えていく大きな力を秘めています。
  しかしながら、こんなことを言うと、ある人はこう言うかもしれません。「そんなのは愚かな机上の空論だ」と。「実際、私たちが生きているこの世界の歴史を振り返ってみても、イエス・キリストが十字架で死んでその愛をお示しになったにもかかわらず、それ以後の2000年間はちっとも人々が共に生きる世界になっていないじゃないか。相変わらずこの世界は、自分の幸せだけを願い、互いに蹴落とし合う人々で満ちている。イエス・キリストの十字架など、罪が溢れるこの世界では何の力も発揮しないのだ。弱肉強食こそ、この世界の真理なのだ。そんな中で私たちが救われる方法はただ一つ、強い力を獲得するのみだ」と。
  この世の知恵で考えれば、そういう結論になるのかもしれません。けれども、このようにこの世の知恵でのみ思考し、イエス・キリストの十字架の福音を愚かなものと見なす人々に対して、パウロは「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と呼びかけます。この世の知恵からすれば愚かに思える十字架の福音に、なお自らの救いを依り頼むよう訴えるのです。
  この世の知恵からすれば愚かに思える教会の福音が、実は私たちを救う唯一の道であり、力であり、知恵である。だから自分は他の誰に批判されようとも愚直に十字架の福音を宣べ伝えていく。これが、今日の聖書個所に込めたパウロの思いでしょう。
  今日の聖書個所を読んで、私もこの現代の社会の中でパウロのようになりたいと強く思わされました。ここで今の私たちの社会を振り返ってみれば、そこでは政治家というこの世の知恵者が力による救いを強固に主張しています。「この世界は弱肉強食だ。力を持たなければ他国にいいようにされてしまう。力を持つことこそ自国を平和にし、救う唯一の手段なのだ」。そのように主張して、アメリカから大量に武器を買い、日米軍一体化を推し進め、アメリカと共に戦争のできる国を目指そうとしています。安保法はそのための第一歩であり、安倍政権の目指す9条加憲もそのための手段に他なりません。9条を加憲して自衛隊を明記する、そうすることによって、自衛官が子どもから「お父さんは憲法違反なの」と言われて辛い思いをしないで済むようにする。安倍総理はいつかの国会でそう話していましたが、そして、そのように自衛隊を憲法上グレーな存在で無くすという主張は一見もっともそうに思えるのかもしれませんが、その実は9条第2項の戦力不保持と交戦権の否認の無力化です。そうすることによって、今の政権は、安保法・武器輸出と共に日本を戦う国に変質させようとしているのです。
  このようなあり方ですね、アメリカから大量に武器を買い、その一方で日本の武器を他国に売りつけ、そして日米軍一体化を推し進めてアメリカと一緒に戦争のできる国にしていく、こうしたあり方を今の政権は「積極的平和主義」と謳っているようです。しかし、私はこれは、「積極的平和」という言葉を提唱したヨハン・ガルトゥング博士に対する大きな冒涜だと思います。
本来ガルトゥング博士が提唱した「積極的平和」という概念は、ただ単に戦争のない状態を「消極的平和」と定義して、それにとどまらずに貧困、差別、抑圧などの「構造的暴力」も一切ない状態を定義したものでした。「消極的平和」のみならず、「積極的平和」をこの地に打ち建てていこう、そうして戦争だけでなく、あらゆる貧困や差別、抑圧を失くしていこう。これが、「積極的平和」という言葉に込めたガルトゥング博士の思いだったと思います。
  しかし、安倍政権はこの「積極的平和」という言葉だけを盗用して、平和のために積極的に行動する、平和のためにと言って武器を持ち、軍隊を持ち、戦争も行えるようにする自らの有り様を「積極的平和主義」と呼んで、至る所で多用しています。これには、ガルトゥング博士も頭に来たようで、このように安倍総理が「積極的平和主義」という言葉を自らの政治の旗印に掲げていることをどう思うかという質問に、「私が1958年に考えだした『積極的平和(ポジティブピース)』の盗用で、本来の意味とは真逆だ」と答えておられます。
  そもそも安倍総理の言う「積極的平和主義」などという概念ですね、「平和のための武装」、「平和のための戦争」という妖怪みたいな概念が果たして成り立つものなのかということを、私たちはよくよく考えてみなければなりません。このことに関連して、最近読んだ『日本国憲法〜9条に込められた魂〜』という著書の中に興味深い言葉がありましたので、紹介させていただきます。第44代内閣総理大臣として日本国憲法を作った幣原(しではら)喜重郎(きじゅうろう)の言葉です。「正気の沙汰とは何か。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は考え抜いた結果出ている。世界はいま一人の狂人を必要としている。自ら買って出て狂人とならない限り世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことはできまい。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ」。幣原の平和憲法に込めた思いが良く表れている言葉でしょう。
  この言葉に言い表されているように、武装や戦争によっては、決して平和は成し遂げられません。平和はすべての国、すべての人々が武装を解き、戦争を放棄した先にこそ成し遂げられるものなのです。ですから、私たち教会はこの社会のただ中にあって、「力を捨てよ、知れ わたしは神」と仰られた神様のその御言葉を一生懸命宣べ伝えます。神様の御前にすべての国、すべての人々が「力こそ正義」、「力こそ救い」の弱肉強食の世界を離れてあらゆる武装を解き、あらゆる戦争を放棄することを強く訴えていきます。それこそ、皆が力を求める中であえて無力な姿となられた、そうして人の下に立って仕える犠牲愛で救いを成し遂げられた十字架のイエス・キリストに従うあり方でしょう。
  私たち教会のこうした主張、こうしたあり方というのは、この世の知恵者からすれば「愚かなもの」と映るのかもしれません。政治家たちは私たちを見て、きっとこう言うでしょう。「そんなのは単なる理想主義だ。実現しないイデオロギーだ。あなたたちはこの国の防衛のことがまるで分かっていない。大馬鹿者だ」と。けれども、たとえそのように批判されようとも、私たちはイエス・キリストの十字架の福音に依って立つ自らの主張を変えることはありません。「神の愚かさは人よりも賢」い。軍拡に救いを求めることが、所詮は滅んでいく者の知恵に過ぎないこと、完全な武装放棄、戦争放棄に至る軍縮にこそ救いがあることを愚直に訴えていきます。
  かつて幣原は言いました。「世界はいま狂人を必要としている」、「愚か者を必要としている」と。その愚か者に、私たちキリスト者はなろうではありませんか。願わくは神様が私たち教会の宣教の業を祝し、力強く導いてくださいますように。この世の知恵からすれば愚かに思える教会の主張、教会の福音こそ、実は私たちを救う唯一の道であり、力であり、知恵である。この確信のもと、誰に批判されようともパウロのごとく愚直に十字架の福音を宣べ伝えていきたいと願います。
                祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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