2020年8月30日(日) 聖霊降臨節 第 14主日礼拝説教
 

「神様の義」
 出エジプト記 34章 4〜9節 
北村 智史

 牧師というのは、毎週日曜日に礼拝の中で説教をいたします。そのために、普段から「何かネタはないか」と探し求めているのが牧師の日常だと思います。うまい具合にネタの収集ができればよいのですが、どうしても忙しい時はなかなか本などを読む暇が取れなくて、アウトプットばかりになってしまうことも少なくありません。そんな日々が続き、「礼拝で同じような話ばかりしているな」と感じるようになれば、「何かを変えなくては」と焦ることになるわけですが、最近は新型コロナの影響で出張などの仕事が減った分、教会の仕事に集中できるようになりまして、ゆっくり本を読む時間も取れるようになりました。教会員の早川さんからも何冊かご本を貸していただきまして、読ませていただいたのですが、非常に面白かったですね。内坂晃先生という牧師の説教集なのですが、ここから説教を何本も書けるんじゃないかというくらい色々と刺激をいただきまして、最近は説教のネタにも困らない日々を過ごしています。
  今日のお話も、この内坂先生のご本から着想を得たものですが、内坂先生は『虚無の霊に抗して』というご本の中で、山梨英和学院の校長であられた内藤正隆先生のこんなお話を紹介しておられます。
  「学校を卒業してはじめて教師になった頃、ある生徒が私の試験監督のとき不正行為をしました。何回かそれとなく注意しましたが案外大胆にくりかえすので、遂に私はつかまえました。つかまえると、全く今までの態度とうって変わって私にあやまって、内密にしてほしいというのです。しまいには涙を流してわびるのです。私はその生徒の名前さえ知らなかったのですが赦しませんでした。いさぎよく服罪して一学期の成績がゼロになることを甘んじて受けろとすげなく申しました。最後にその生徒は少しふてくされて、『先生はそれでもクリスチャンですか』と申しました。私は驚きました。『そうだ!』と吐き出すように言って職員室に帰ったのですが、あとでその生徒の家はクリスチャン・ホームであることを知りました。」
  内藤先生が経験されたこの出来事について、内坂先生はこんな風に語っておられます。「あやまれば無限に赦されるはずだ、キリスト教は愛の宗教なのだから。おそらくこの生徒はそう考えていたのではないかと思うのです。なぜこのような考えの生徒が出てきたのでしょうか。そして、このような考えの生徒は、キリスト教主義学校では例外なのでしょうか。私はそうは思わないのです。むしろこういう考えの生徒、こういうキリスト教理解というものは、かなり広く見られる現象ではないかと思うのです。なぜでしょうか。どこにその原因があるのでしょうか。それは日本のキリスト教が、神の愛のみを強調し、神の義というものをきちんと語ってこなかったからではないか。もしそうだとすれば、実は神の愛ということも、正しくは語ってこなかったということであります。義抜きの愛は、聖書が告げる愛ではないからであります。」
  内坂先生のこの言葉を読みまして、私は襟を正される思いがいたしました。私も礼拝の中で度々神様の愛を語って参りましたが、神様の義ということはどれほど語って来ただろうか。そう思わされたからです。なので、今日は神様の義ということについてお話をしていきたいと考えています。
  先程お読みしました聖書個所は、出エジプト記34:4〜9です。この中で、神様はモーセに御自分について、こんな風に宣言しておられます。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」この宣言に見られるように、神様はただ慈愛の神様であられるだけではありません。罰すべき者を罰し、正しい裁きを行って御自分の正義を貫徹される方でもあられます。これはつまり、神様は慈愛と恵みの神様であられるけれども、甘やかしの神様では決してないということです。神様においては、愛情が変な方向に行って、それで正義が蔑ろにされるということはありえません。私はこのことをはっきりと強調しておきたいと思います。
  ここでイエス様の十字架の出来事について思いを馳せれば、私たちはそこでも神様の正義が貫徹されていることに気付かされるでしょう。十字架の出来事を通して、私たちは神様に罪を赦されましたが、そうした私たちの赦しの陰にイエス様の尊い犠牲があったことを私たちは決して忘れてはなりません。イエス様が私たちすべての人間の罪を背負って十字架の上で死んでくださった、そうした形で神様が私たち人間に対する裁きを終えてくださったからこそ、私たち人間は罪を赦されたのです。そして、そのように人間に対するすべての裁きを御自分の愛する独り子に背負わせたその愛で、私たち人間が生まれ変わるのを待っておられます。
  実に、神様の赦しの陰には、神様の裁きがきちんとありました。そして、そこには人間の悔い改めが期待されています。十字架の出来事、神様の赦し、それは人間への甘やかしでは決してありません。裁くべきは裁き、しかもその裁き方に示された愛によって私たち人間を悔い改めへと導く神様の正義が充満しています。
  この意味で、よくイエス様の十字架の出来事を、「私たちは神様に無償で罪を赦されたのだから、後はやりたい放題したらいいのだ」と勘違いする人がいますが、それは大きな誤りだと言うことができるでしょう。そのように悔い改めを蔑ろにし、神様の正義を侮っていれば、義なる神様はそんな私たちを罰せずにはおかないはずです。罪の放縦を許すほど、キリスト教は甘い宗教ではありません。
  神様のもとでは、正義と愛が見事に両立している。この認識をしっかりと持ち、神様の愛を一身に受けて、日々豊かな悔い改めを捧げていきたい。そうして、神様の正義に生きていきたいと願います。
  祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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