2020年9月 6日(日) 聖霊降臨節 第 15主日礼拝説教
 

「『愛国心』について考える」
 フィリピの信徒への手紙3章17節〜4章1節 
北村 智史

 8月は会堂での礼拝を中止し、それぞれのご自宅で礼拝をお守りいただきました。そのために説教原稿をホームページにアップし、私と綾の二人で守った礼拝の動画をyou tubeで配信していましたが、それを御覧になればわかる通り、先月は主に平和について考える説教をたくさんお話しさせていただきました。本当に二度と戦争の過ちを犯してはならない、そのことを強く思わされる一月だったと思います。先週の火曜日から9月に入りまして、月は変わりましたが、今日も平和に関するお話をさせていただきたいと考えています。
  説教題は「『愛国心』について考える」です。ではなぜ、説教の中で「愛国心」の問題を取り上げるのか。それは今の政府が強調する「愛国心」という言葉の端々に、戦前、戦中に戻ろうとするかのような動きを感じるからに他なりません。まさに神様の平和が脅かされているこの事態に、聖書の御言葉は私たちに何を教えてくれるのか。このことを今日は考えてみたいと思ったのです。
  そういうわけで、今日は「愛国心」について色々と考えていきますが、この言葉を聞いて思い出すのは、私が大学4年生の時です。教育基本法が改正されるということで、そこに「愛国心」を盛り込むべきかということが世の中で議論されていました。
  「愛国心」を盛り込むべきと主張する人々の考え方はこうです。個人主義が重要視されすぎている現在の日本社会で日本人が古来大切にしてきた礼節や親孝行という価値観が失われつつある。そこで、もう一度我が国の優れた文化を再認識して、「秩序ある道義国家」を足元から築いていくために、教育基本法に「愛国心」を盛り込むべきだ。こうした主張の背後にあるのは、現在の家庭の崩壊や犯罪の増加によって日本の社会が荒んでいることから、我が国の「和を重んじる伝統と文化の尊重」をもう一度見直すべきだという考えに他なりません。
  これに対し、「愛国心」を教育基本法に盛り込むことに反対する人々の考え方はこうです。そのようにすると、過去の歴史からみて戦前・戦中の国粋主義につながる恐れがある。他の国よりも自国を優先する意味合いが強すぎる。内心の自由が侵される。このように主張する背景には、愛国心教育の中に見出される戦前の礼節や親孝行を重視した儒教的価値観が、 戦前の国家主義・全体主義の基礎になったのだとの思いがあります。戦後の憲法はこのような価値観を否定し、「個人の尊厳」を何よりも重要な価値として出発したと考えているのです。
  賛成する人達の、「個人を大事にすることも結構だが、現在の日本の社会では個人主義の行き過ぎから多くの弊害が家庭や社会に出ている。この個人主義の行き過ぎを修正するものとして日本人が古来大切にしてきた礼節や親孝行、思いやりを愛国心教育で再び取り返そう」という考え方は、一見もっともらしく聞こえるのかもしれません。しかし、そのような考えから教育基本法が改正された後、日の丸・君が代の強制がさらに強まったこと、また教育勅語を評価し、肯定するような発言が政府から次々に挙がり、教材として使用を認める閣議決定までなされたことなどを考えれば、やはり戦前、戦中回帰の狙いが政府にはあったのだと思わざるを得ません。
  私の大学時代の友人は、ちょうど「愛国心」の議論が沸き起こっていたのが大学4年生の時期だったものですから、卒論にこの「愛国心」の問題を取り上げていました。その友人曰く、「愛国心」というのは、日本における一つの公共宗教ではないかとのことでした。
  「公共宗教」というのは、あまり聞きなれない言葉かもしれません。ホセ・カサノヴァという人が提唱した概念で、私の領域を超え、公の領域において明示的な役割を果たすようになった宗教のことを言います。たとえば、アメリカにおいては大統領就任式に大統領が演説で「神」に言及し、アメリカ市民に「神の下にある国」、「神の下にある国民」という意識の覚醒を訴えます。そして、聖書に宣誓をします。このように、アメリカでは、「信教の自由」、「政教分離」を謳いながらも、キリスト教が私の領域を超えて国の宗教のような位置づけとなっているわけです。このように私の領域を超えて公の領域で明らかな役割を果たすようになった宗教のことを「公共宗教」と言う訳ですが、私の友人は、「愛国心」というのは日本における公共宗教の一つだと、ようするに、日本においては政治家たちが、「愛国心」、「道徳」といった形で天皇教を公共宗教にしようとしている、「見えざる国教」にしようとしている、「愛国心」を教育基本法に盛り込むというのは、政治家たちのそういう試みだと主張したわけです。
  私は彼のこの主張は非常に鋭いものを持っていたように思います。では、政治家たちのこうした試みの果てに待っているものははたして何でしょうか。私は森友問題の時にその一端を見たような思いがしました。テレビで森友学園の子どもたちが教育勅語を暗唱し、「君が代」や軍歌を歌い、中国や韓国などのアジアの諸国に対して偏った発言を唱え、安倍首相を称賛しているのを見て、私は結局これが政府のやりたかった愛国心教育なのだろうと思わされたのです。
  その証拠に、教育勅語を中心としたこの森友学園の教育は当初、安倍首相夫妻や稲田朋美元防衛相、鴻池議員を初め自民党と維新の多くの政治家たちと、いわゆる有識者と目される人たちから称賛、支持されていました。この学園の名誉校長をしていた安倍昭恵さんなどは、子どもたちが教育勅語などを唱える様子、また「安倍首相万歳」と唱える様子を見ながら、涙を流してその教育を称賛していたと言います。その後、森友学園が問題化されるにつれて、かつて賛同した政治家たちは前言をひるがえしたり、口を閉ざしたり、学園との関係を否定するようになりましたが、そのように態度、振る舞い方を変えてもこうした過去は誤魔化せません。
  当時の理事長であった籠池泰典さんに代わって理事長に就任した長女の町浪(ちなみ)さんは、かつての父泰典さんの教育方針について、それは「教育基本法が平成18(2006)年に改正された際に新たに設定された『我が国と郷土を愛する態度を養う』との教育目標を、幼児教育の現場で生かそうとした」ものであったと語っていますが、結局のところ、当時の森友学園の教育方針は第1次安倍政権時に成立した現行の教育基本法のいわゆる「愛国心条項」、すなわち第2条の「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」というくだりを突き詰めた形として実践されていたのであり、それが多くの政治家、有識者にもてはやされていたのでした。
  政府の主張する愛国心教育の果ては、森友学園で見られたような教育。それが分かっているからこそ、私はいくら安倍首相が「美しい国日本」などという言葉で人々の愛国心を煽っても、おぞましさしか感じないのです。私は思います。結局のところ、日本の「愛国心」というものはどこかで天皇教と結びついているし、「和」とか「協調性」といった言葉で「お上に逆らわない」ということを植え付ける、そして全体の流れに異を唱える者を「非国民」、「国賊」といった言葉で排除する概念でしかないのではないかと。そういう「愛国心」なら、私はない方がいいのではないかと思うのですが、でははたして、世の中にはそういう「愛国心」しか存在しないのでしょうか。もしそうでないとしたら、そして、私たちがまことに心に抱くべき「愛国心」というものがあるとしたら、それははたしてどんなものでしょうか。
  このことを考えた時に、私は内村鑑三を思い出しました。この内村を巡っては、「二つのJ」という表現を聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれません。Jesus(イエス・キリスト)とJapan(日本)です。彼はこの「二つのJ」に生涯を捧げました。この意味で、彼は愛国者と呼ばれるにふさわしい人物だったわけですが、そのような内村鑑三がただただ政府の言うこと、為すことに黙従していたのではなく、例えば日露戦争の時には非戦を唱えるなど、国の誤りを積極的に正さんとしていたことは注目に値するでしょう。これはようするに、内村の愛国心には、まことに国を思う気持ちから、国を正すために政府を批判する要素も持っていたということです。
  同じようなことは、明治の代表的キリスト者であった植村正久にも見られます。彼はある著書の中でこんな言葉を語っています。文語で書かれていますので、口語に訳してご紹介しましょう。「国の古を慕い、その歴史の光栄を楽しみ、もしくは国家の屈辱を悲しむだけでなく、よく自国の罪や過ちを感じ、そこから逃げた責任を記憶し、その蹂躙した人道を反省するのは愛国心の極致ではないのか。……(中略)……我が国のいわゆる愛国心というものは滔々たる天下歴史に心酔するものではなく、悲歌慷慨、外国に対して意地を張ろうとするに過ぎないものである。自ら国家の良心をもって責任を負い、国民の罪に泣くものはほとんどまれだ。甚だしいのは、この種類の愛国心を抱く者を非難するのに『国賊』という名を使う。良心を鈍くさせるこのような愛国心は国を亡ぼす心に他ならない。このために国を誤らせたものは、昔も今もその例が少なくない」。
  自分の国の罪や過ちを感じ、それを反省する、正す、それが愛国心の極致だ。そういう愛国者を「国賊」と非難する、そんな愛国心は亡国の心だ。国を亡ぼす心だ。植村はそう断言しています。私はこうした内村や植村の視点から、今の日本の「愛国心」を見直したいと思うのです。本当の「愛国心」、それは国の言いなりになる心では決してなく、国が誤った時にNoと言える心であり、まことに正しい方向へと国を導いていかんとする心でしょう。戦争のできる国づくりが進み、国家が戦前、戦中回帰のような様相を呈しつつある今のこの日本において、私たちはこうした「愛国心」をこそ持たなければなりません。そして、国家の罪を担い、国家の誤りを正し、その未来を明るくしていかなければなりません。そのためには、私たちは国家を超えた、国家を批判することができるだけの原理や視点を同時に持っていなければならないでしょう。
  私たちキリスト者こそは、そのような原理、視点を持った存在に他なりません。今日の聖書箇所フィリピの信徒への手紙4:20にある如く、「わたしたちの本国は天にあります」。私たちキリスト者は日本という国で生活を営んではいても、その心は常に「神の国」に向いています。天に属する者として、神様の御心を追い求め、「神の国」をこの地に成していかんと考えています。そして、こうした信仰、こうした思想に基づく国家観から現実の国家を批判し、導いていくのです。
  戦前、戦中の教会は、こうした使命をしっかりと果たすことができませんでした。神様の御心よりも天皇主義国家そのものを絶対的なものとし、戦争協力という罪を犯してしまいました。その反省にしっかりと立ち、今の時代においてこそ私たち教会は「地の塩、世の光」としての使命をしっかりと果していきたいと願います。十字架に敵対して歩んでいるかのような今の国家の歩みの中で、主によってしっかりと立ち、国家を遥かに超えた神様の視点からその歩みを正していきたい。そうして、神様の平和をこの世界に打ち建てていきたいと願います。
      祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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