2020年9月 13日(日) 聖霊降臨節 第 16主日礼拝説教
 

「みんなで生きよう」
 ローマの信徒への手紙12章15節 
北村 智史

 最近は新型コロナの影響もあって、「おひとりさま」という言葉をよく目にします。先日も雑誌を読んでいましたら、「おひとりさま専用特集」なるものが組まれていまして、「ひとり焼肉」、「ひとり居酒屋」、「ひとりフレンチ」といったいわゆる「ひとりメシ」から、「ひとり図書館」、「ソロキャンプ」、「ひとりショッピング」といったものまで、一人遊びのための情報が盛りだくさんに紹介されていました。ソーシャルディスタンスを取らなければならないこの状況の中で、それでもできる息抜きとして、こうした一人遊びが注目され、薦められているのでしょう。
  私も独身時代は、休みの日にあちこちに散歩に出かけたりして、一人遊びを楽しんでいました。たしかに、日々の生活の喧騒を離れて一人になる時間というのは私たちにとって必要なものでしょう。そういう気分転換があるからこそ、日々の人付き合いもうまくやっていけるのかもしれません。
  ただ、今の学生に聞いたら、そういう一人を楽しむ時間を確保する必要を感じるものの、「独りぼっちの孤独」は嫌なんだそうです。彼らの間では「ぼっち」というそうですが、上手い具合に集団に所属できず、浮いた存在になるのは絶対に嫌だと言うことでした。一人を楽しむことと、孤独は違う。オンオフを切り替えるように、人付き合いも楽しみながら、時には一人を楽しむ、どちらも自由に楽しみながらできるというのが理想なのでしょう。
  今は新型コロナの影響で人と集まることができない、人と距離を取らなければならない、そうした状況の中で気持ちを切り替えて、一人でできることを楽しむという試みは、私は良いものだと思います。しかし、その一方で、この新型コロナの中でたとえば差別が増えたりと、人と人とが分断され、人が独りを楽しむというのでは決してない、孤独に「ぼっち」になってしまっている、そんな状況もあちこちに見られるようになっていると私は思うのです。一人で楽しむ機会が増えても、人を「ぼっち」にさせない。そのために、皆で生きるという連帯の思いを忘れないようにしたい。今日はそんなお話をしていきたいと考えています。
  さて、今日は聖書の中からローマの信徒への手紙12:15を取り上げさせていただきました。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という一文です。この言葉に言い表されているように、パウロはキリスト者たる者、こういう共感の気持ちに溢れた生活をしなければならないと主張しました。それは、他でもないイエス様が、公の生涯においてそういう生活を実践されたからに他なりません。
  実際、聖書にはイエス様が「憐れに思われた」という記事がたくさん出て参ります。日本語で「憐れに思う」というと、なんだか上からのものを感じて嫌な感じがいたしますが、聖書が書かれたギリシア語の原語では全くニュアンスが異なります。この日本語で「憐れに思う」と訳されている言葉は、ギリシア語の原語では「スプランクニゾマイ」と言いまして、これは「スプランクノン」、すなわち「内臓」に由来する言葉です。昔は「はらわた」、「内臓」が感情の座と考えられていまして、そんな「はらわたが突き動かされるような、そんな居ても立っても居られない思いに駆られる」というのが、聖書に登場する「憐れに思う」という言葉の意味に他なりません。イエス様はしばしばそんな思いで人々に寄り添われました。そして、「罪人」とレッテルを貼られて、社会から疎外されて苦しむ人々と、喜びも悲しみも苦しみも痛みも共にしながら一緒に生きられたのです。イエス様の隣人愛の根底にあったもの、それが共感の気持ちに他なりません。
  このように、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」く共感の気持ちこそは隣人愛の基本なのですが、今はこの共感の気持ちがオフになっているのをすごく感じるのです。今、巷ではコロナ差別が問題になっています。感染者や医療従事者、またその家族に対して、心無い誹謗中傷の言葉を浴びせたり、デマを流したり、投石や落書きをしたり、貼り紙をしたりする事例が後を絶ちません。しかしながら、これらは何と想像力に欠いた行いでしょうか。やられた人がどういう気持ちになるか、まったく顧みない。大変な状況の中にある人に寄り添う、そんな共感の気持ちのかけらも見られないこのような事例が蔓延している今のこの社会の中で、私たち教会は今こそ人を「ぼっち」にさせない、皆で生きんとする心を取り戻すよう、しっかりと訴えていかなければならないと思うのです。
  このことに関連して、一つのお話をご紹介しましょう。元JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)のワーカーで、ネパールの赤ひげと言われた岩村昇医師のお話です。この岩村昇医師は、JOCSのワーカーとして1962年にネパールに派遣され、以後18年間に亘ってネパールで医療活動をされ、 アジアのノーベル賞と呼ばれる「マグサイサイ賞」を受賞された方です。
  当時、ネパールには結核患者が非常に多く、岩村医師は山を越え谷を渡り、各地を巡って治療に努めていました。ある村で、一人の老女が倒れているのに出会いました。一刻も早く入院させる必要があったので、ちょうど通りかかった若い男性に運搬を頼むと、彼は快く引き受けてくれました。彼は老女を担ぎ、三日間三つの山を越えて、基地としていたタンセン病院に運んでくれました。岩村医師は大変感謝して、労賃を倍にはずんで差し出しましたが、彼はどうしても受け取ろうとせずに、こう言いました。「自分は貧乏をしているが、この三日間、金もうけをしようとして、このお婆さんを運んだのではない。みんなで生きるためだ。生きるとは、弱い人と分かち合うことだ。自分には若さと体力がある。それを無くしているお婆さんに、長い一生の旅路でほんの三日間、おすそ分けしただけだ。」お金を受け取らずに去って行く若者の服はボロボロで、はだしの足の裏から血の跡が赤い点になって地面に残っていたそうです。この時、この若者が言った言葉、「サンガイ・ジウナコ・ラギ」、日本語で「みんなで生きるために」が、この後JOCSのスローガンとなって、今に受け継がれています。
  みんなで生きるために、弱い人と分かち合う。喜びも悲しみも、若さも体力も。こうした精神こそ、今の日本の社会に必要なものだと私は思います。感染症予防のため、ソーシャルディスタンスが強調され、一人遊びが推奨される中で、人々の気持ちまで離れ離れになってしまわないように、そしてこれ以上差別などで孤独に苦しむ人が出ないためにも、こうした共感の気持ち、分かち合いの気持ち、すなわちみんなで生きんとする心を広くこの社会に訴えていきたいと願います。今日の聖書個所でパウロが主張した精神、またイエス様が大切にされた生き方を、皆で一緒に広めていきましょう。

      お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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