2020年9月 20日(日) 聖霊降臨節 第 17主日礼拝説教
 

「御恵みを証しする人生」
 ルカによる福音書15章11〜24節 
北村 智史

  最近はステイ・ホームということで、休みの日も外出せず、家で楽しむ機会が増えてきました。そんな中で、我が家ではアマゾン・プライムというのを契約しまして、色々なドラマや映画、テレビ番組が今パソコンで見放題になっています。オフの時に妻と二人で色々な映画や番組を見て楽しんでいるわけですが、その中でも「マイ・インターン」という映画が印象に残りました。
  この映画をご存じない方のために簡単にあらすじをご紹介すれば、主人公はベンという70歳になる初老の男性です。舞台はアメリカで、印刷会社の仕事を40年勤務し定年退職したベンには、サンディエゴに息子1人と孫が2人いますが、妻に先立たれて3年半が経過し、ニューヨーク州ニューヨーク市のブルックリンで時間を持て余していました。隠居生活もだいぶ経過し、ゴルフやヨガ、料理教室、太極拳を楽しんだり、貯まったマイレージで海外旅行もしてみたりなどしますが、帰ってくると空しい気分が残ります。同年代の友人の葬儀に呼ばれることが、想像以上に多くなりました。そうした日々の中で、やっぱり働きたい、もう一花咲かせたい、そう思ったベンは、65歳以上の見習い社員(=シニア・インターン)の募集に応募します。
  このシニア・インターンという制度は日本ではあまりなじみがないかもしれませんが、アメリカでは、会社が高齢者を雇うことで社会貢献の一種になること、会社のイメージアップの効果が絶大であることなどから広く行われているようです。
  こうして、ベンは若者向けのファッション通販サイトの会社に、70歳という年齢で再就職することになりました。1年半前に設立され、あっという間に従業員220名の大企業に成長したこの会社の社長は、ジュールズという若い既婚女性です。彼女はかなりのやり手でしたが、家庭内や会社内の人間関係などに問題も抱えていました。
  最初の内は「任せる仕事がない」とベンを煙たく思っていたジュールズでしたが、ベンは会社の若者たちの相談相手になったり、ジュールズと部下の間にできていた人間関係の溝を埋める働きをしたりと、豊富な人生経験からいぶし銀の活躍をし始め、職場の人たちから信頼を得るようになっていきます。そして、人生の先輩であるベンとの友情、交わりを通して、ジュールズを初め会社の人たちが成長していくのです。
  一人の人が周囲に及ぼしていく影響力、また年長者には若者には無い豊かな経験と知恵があるということを考えさせられるお話で、観ていてとても前向きな気持ちになりました。よく年を取ることは凋落への一歩として後ろ向きに捉えられたりしますが、私はそうではなく、年を重ねることは人生経験から得られる知恵を宝物として積み重ねていくことであると前向きに捉えたい、そして前向きに年を重ねていきたいと思わされたのです。
  今日は敬老感謝の礼拝を神様にお捧げしていますが、こうした様々な宝物をお持ちの年長者に敬意を払うと共に、そのような年長者一人ひとりの人生を導いて来られた神様に大きな感謝を捧げる一日を皆さんと一緒に過ごして参りたいと存じます。
  さて、そんな今日はルカによる福音書15:11〜24を聖書箇所に取り上げさせていただきました。イエス様が「放蕩息子」のたとえとして知られる有名なお話をお語りになった場面です。父親が亡くなる前から財産の分け前をくださいと迫り、父親からそれを貰うや否や全部お金に変えて家を飛び出し、放蕩の限りを尽くした弟。しかし、そんな生活がいつまでも続くはずはありませんでした。何もかも使い果たした時にひどい飢饉が起こって、彼はたちまち食べる物にも困り、ぼろぼろになります。そんな時に、彼は父の家を思い出します。そして、悔い改めて父のもとへと帰って来るのです。そんな彼を、父親は「まだ遠く離れていたのに」見つけて、「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻し」ました。そして、弟が悔い改めの言葉を口にするのも遮って祝宴を始めるのです。
  このお話が私たちの心を打つのは、この弟と私たち一人ひとりの姿が重なるからに他なりません。今日のお話の中でこの弟が辿った人生の歩みは、私たちの人生の旅路そのものでしょう。私たちもまたこの弟と同じように、父なる神様のもとをさ迷い出る、そんな存在です。それも、何度も何度も。そしてその度にこの世の中で罪にまみれ、ボロボロになります。しかし、神様はそんな私たちを決してお見捨てにはなりません。99匹を野原に残して一匹の羊をお探しになる羊飼いの如く、私たちが迷い出るたびに私たちを見つけて捉えてくださり、御自分のもとに立ち帰らせてくださるのです。そして、終いには父なる神様の永遠の住まいに優しく迎えてくださる。これが、私たち信仰者の人生の歩みです。
  実際、私自身振り返ってみましても、これまで私は何度父なる神様のもとからさ迷い出たことでしょうか。きっと皆さんもご自身の生涯を振り返られた時、同じような経験をされていると思うのです。そのさ迷い出方は実に様々でしょう。理不尽な出来事に直面して、「神様、何でですか」と神様を信じられなくなった、神様の愛が信じられなくなって神様に背を向けてしまった、そういう方もおられると思います。「信仰なんて弱い人間が持つものだ。自分は神様の助けなんかなくても生きていける」。そういう風に考えて神様との関係なくして生きていこうとした、そういう方もおられるかもしれません。
  いずれにせよ、私たちはその人生の中で何度も何度も父なる神様のもとからさ迷い出ます。そして、この世の罪の中でボロボロになるのです。この世の罪、それには色々ありますが、最も広く蔓延している罪は愛に条件を付けてしまうという罪でしょう。
  このことに関連して、ヘンリ・ナウエンというカトリックの著作家がこんなことを語っておられます。「この世界は、『もし……なら』という、たくさんの条件をつける……。この世界はこう言う。『もちろん愛しますよ、もしあなたの外見が素晴らしく、インテリで、お金持ちなら。愛しますよ、もしあなたが立派な教育を受け、立派な仕事に就き、立派な人脈を持っていれば。愛しますよ、もしあなたがたたくさん生産し、たくさん売って、たくさん買うのでしたらね』この世の愛には、終わりのない『もし……なら』が隠されている。……(中略)……この世の愛は、つねに条件つきである」。
  今日の聖書個所で没落した弟をボロボロにしたのも、この条件付きの愛に他なりません。没落した弟がある人のところに身を寄せたところ、その人は弟に豚の世話をさせた、そして弟は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかったと聖書には記されています。もし没落する前の状態、お金持ちでたくさん消費し、自分たちを楽しませてくれる存在であったなら、この弟を愛したであろう、その愛の条件から漏れた時、この弟を愛してくれる人は誰もいなかった、ひどい仕打ちをする者しかいなかったのです。
  こんな風に、この世は条件付きの愛で満ち溢れています。そして、その中で、気が付けば私自身も条件付きでしか人を愛せない罪に陥ってしまいます。そうして、神様のもとからさ迷い出た私たちは、そのような冷えた愛のやり取りの中でボロボロになり、愛を求めて飢え渇くのです。
  しかし、その度に神様は私たちに御自分のこと、その無条件の愛を思い出させてくださいました。神様のもとからさ迷い出て行き詰まるたびに、そのたび毎に、条件を付けない御自分の溢れるほどの愛を思い出させてくださったのです。そして、私たちを御自分のもとに立ち帰らせ、私たちを抱き締めて大喜びしてくださいました。
  今日、礼拝の中で祝福する75歳以上の方々は、こうした経験を積み重ねて来られたことでしょう。その生涯は決して平坦なものではなかったとお察しいたします。喜びもあれば悲しみもあり、様々な苦労もあったことでしょう。信仰的に揺れ動いたこともたくさんあったことと思います。けれども、神様はそのお一人おひとりを決してお見捨てにならなかった。私たちが御自分のもとからさ迷い出るたびに私たちを御自分のもとに帰し、その御懐に抱き給う。これから礼拝の中で祝福する人々は、その御恵みの証言者に他なりません。これらの方々の人生一つひとつが、神様の御恵み、その愛をはっきりと証ししているのです。
  ですから、私たち、この礼拝の一時、その証しにしっかりと耳を傾け、神様に対してたくさんの感謝と讃美をお捧げしたいと思います。そして、私たちもまた祝福される方々同様、神様の御恵みを証しする人生を一歩一歩歩んで参りたいと願います。願わくは、神様が本日の敬老感謝礼拝を大いに祝福してくださいますように。一人ひとりの人生を持って、神様の愛、イエス・キリストの福音をこの社会に広く宣べ伝えていきましょう。

  お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 

 
 
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