2020年10月 4日(日) 聖霊降臨節 第 19主日礼拝説教
 

「個の尊さ」
 ルカによる福音書15章1〜7節 
北村 智史

  今日は教会の暦で言う「世界聖餐日/世界宣教の日」の礼拝を神様にお捧げしています。「世界聖餐日」とは、「世界中の教会の人々が心を一つにして聖餐に与りましょう」という日で、毎年10月の第一主日がこれに当たります。聖餐式というのは、子どもたちにとってはあまり馴染みがないかもしれません。大人の礼拝の中で月に一回ほど行われる大切な儀式で、イエス様の十字架の犠牲を思い起こしながら皆で一緒にパンとぶどう酒を頂く儀式のことです。こんな風にして、「私たちは皆イエス様の犠牲によって救われた仲間なんだよ。それぐらい神様から愛されている仲間なんだよ」ということを確認するんですね。「世界聖餐日」というのは、それを世界中の教会の人々で行う日です。
  東京府中教会が所属している日本基督教団では、さらにこの日を「世界宣教の日」と定めています。「この神様の仲間の輪が世界中に広がっていきますように。そのために働いてくれている世界中の宣教師が祝されますように」と祈る日にもなっているんですね。
なので、今日は新型コロナの影響で聖餐式は行いませんけれども、イエス様の尊い十字架の犠牲をしっかりと想い起こして、私たちの宣教の業が祝されるよう、そうして世界中の人々が神様の愛のもとで一つに結ばれるよう祈りを合わせていきたいと願います。
  さて、そんな今日はルカによる福音書15:1〜7を聖書箇所に取り上げさせていただきました。「『見失った羊』のたとえ」として知られる、イエス様の有名な譬え話です。イエス様はこの譬えを用いて、神様の愛とはどのようなものであるかをお教えになりました。
  イエス様は言われます。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と。しかし、これは常識で考えるならば、ありえない話です。見失った一匹の羊を捜すために、九十九匹を野原に残して危険な目に遭わせるという選択をいったい誰がするでしょうか。おそらくこのような状況に置かれたとすれば、大勢の方が九十九匹の安全のために、迷子になった一匹の羊は諦めるという選択をすることでしょう。あるいは、九十九匹の羊の安全を確保してから、迷子になった一匹の羊を捜しに行くでしょうか。その場合にしても、一匹の羊のことは後回しです。優先すべきは全体のことであり、全体に比べれば迷子の一匹の価値は霞んでしまうというのが私たち人間の常識でしょう。
  しかし、神様はそのような考え方を為さらないとイエス様は言われます。イエス様にとって、神様は「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回」る羊飼いに他なりません。全体のために、個は犠牲になっても構わない、全体のために個は後回しになっても仕方がないという考え方を神様は為さらない。むしろ全体を後回しにしてでも御前に見失われた一人の人の救いを大切になさる、神様はそのような愛情を持って私たち一人ひとりに向き合ってくださるお方だとイエス様は言うのです。
  先月の月報『泉』では、戦後75年を記念して、先の戦争の記憶を受け継いでいくために、戦争経験者の方にその体験を書いていただこうということで教会員の鹿島國雄さんに記事を書いていただきましたが、私はその記事を読んで、私たちは今こそこの神様の愛ですね、全体を後回しにしてでも個人を大切にする神様の愛を広く訴えていかなければならないのではないかと強く思わされました。
  自らの戦争体験を綴った記事の中で、鹿島さんはこのように書いておられます。「『勝ち抜く 僕ら少国民 天皇陛下の御為に 死ねと教えた父母の 熱き血潮を受け継いで 心に決しの白襷……♪』当時歌っていた歌です。今思えば何という歌詞でしょう死ねと教えた父母・・・・ それでも敗戦です。」このように、戦時中は天皇陛下のために、またお国のために、全体のために死ねという教育が広く行われたのでした。そして、この教育を受けた多くの若者が特攻(体当たり攻撃)などでそのかけがえのない命を散らしたのです。
  私は思います。こうした事柄は、何とイエス・キリストの福音に反することだろうかと。全体のために個人が犠牲になれと教えられる、そして殺されていく。こうした事柄は、全体を後回しにしてでも一人ひとりを大切になさる神様の愛とは真逆の事柄でしょう。
  怖いのは、そうした過去の全体主義の風潮が今の政治のあちこちで顔を出してきていることです。鹿島さんは書いておられます。「あれから75年経ち、あの戦争を忘れたように、今、また戦争に向かっている空気を感じるのは私だけでしょうか?」と。「安倍首相の現憲法への軽視発言、教育勅語の評価、教育現場での国旗・国歌の強制、秘密保護法成立への画策など……」。このようにして国家が戦争へと向かえば、また全体のために個人が蔑ろにされる社会が打ち建てられていくことでしょう。そのような中にあって、私たちはしっかりと神様の愛を訴えていかなければなりません。全体のために、一人ひとりの大切な命が霞んでしまうようなことは神様の御心ではない。神様は本当に一人ひとりを尊び、一人ひとりにこの上ない愛情を注がれる。その神様の愛に従って、私たちはむしろ全体が個人に仕えるような、個人を生かしていくような、そんな社会を形作っていかなければならない。そのことをしっかりと訴えていかなければならない。そう思うのです。
  今日はお帰りになったらぜひ先月号の月報『泉』をご覧いただければと思います。全体のために個人が次々と犠牲になっていった先の戦争の記憶をしっかりと受け継いで、二度とそのような悲劇が繰り返されないように祈り、行動していきましょう。全体に埋没することのない個の尊さ、個人の尊さをしっかりと学び、皆でこれを訴えていきたいと願います。

    祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 

 
 
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