2020年10月11日(日) 聖霊降臨節 第 20主日礼拝説教
 

「悔い改めは成長のチャンス」
 サムエル記下12章1〜14節 
北村 智史

  今日は話の冒頭、いきなり皆さんに質問をしますが、この中で生まれてから一度も悪いことをしたことがない、間違ったことをしたことがないという人はいるでしょうか。きっとこのように聞けば、皆が皆、首を横に振ることと思います。私たち人間というのは本当に罪人であり、欠けを持った存在で、どれだけ正しく生きようと心がけても、ついつい神様の御心に反したことをしてしまう、そんな存在です。ですから、ここにおられるそれぞれが自分のことを振り返ってみれば、皆、何がしか悪いことをした、間違ったことをした、そして親や先生などに怒られた、そんな経験が幾つも思い浮かぶことと思うのです。実際、私自身これまでの人生を振り返ってみましても、「ああ、ひどいことをしたな。人生をやり直したいな」と思うことが幾つも思い浮かびます。人間が人間である限り、過ちは避けられないもので、きっと私たちはその度に反省し、悔い改めて、そして成長していくのでしょう。人生はその連続と言っても過言ではありません。そして、それは聖書に出てくる人物であっても、決して例外ではないようです。
  今日は聖書の中からサムエル記下12:1〜14を取り上げさせていただきました。ダビデという王様がナタンという預言者から叱られる場面です。このダビデという王様は、ただの王様ではありません。神様によって王様に選ばれた人物で、神様に愛された人、神様の御心に適う政治を行った人として、今もユダヤ人の間では最も尊敬されている、そんな王様です。では、そんなダビデ王は一度も悪いことをしなかったか、間違ったことをしなかったかと言えば、そんなことはなくてですね、聖書にはこのダビデ王が犯したとんでもない罪がはっきりと収められているんです。なんと、このダビデ王は、バト・シェバという人妻に一目惚れして、この人を自分の妻にするために、バト・シェバの夫であるウリヤをわざと戦いで危険な目に遭わせて死なせてしまいました。こうして、ダビデはバト・シェバを自分の妻に迎えたわけですが、聖書にはこのダビデの行いが「主の御心に適わなかった」とはっきりと記されています。
  それで、今日の聖書個所になるわけですね。神様は預言者ナタンという人物をダビデのもとに遣わして、彼を叱らせました。すると、どうでしょう。ダビデ王は自分の罪を悟り、「わたしは主に罪を犯した」と悔い改めたのです。神様に悔い改めを捧げたダビデは、死の罰を免れました。今日のこのお話は、どんなに立派な人物であったとしても、私たち人間は罪人であり、罪を犯してしまうのだということ、そして、そのような時、神様に悔い改めを捧げることの重要性を私たちに教えてくれているのではないでしょうか。
  ここで私たちが罪を犯してしまった、正しくないことをしてしまった、そしてそれを指摘された時の反応を思い起こせば、私たちはそのような時、ダビデのように素直に罪を認めて悔い改めるということはほとんど稀ではないかと私は思うのです。大抵の場合、私たちは自らの罪を認めたがらずに、何が何でも己を正当化しようと躍起になるのではないでしょうか。
  大学時代のオーケストラサークルのある友人のことを思い出します。その人はかなり性格に難のある人で、周りをいつも不快にさせていました。私も同じパートだったものですから、距離が取れないと言いますか、嫌が上でも身近にお付き合いしないといけなくて、たくさん被害を受けました。ひどい言葉の暴力を何度も浴びせられましたし、非常識なこと、いい加減なことをやりたい放題されましたね。
  一つ例を挙げると、サークルの飲み会にお金を持たずにやって来て、会計をする段になって「お金を持っていない」と言い出して、なし崩し的に幹事をやっていた私などにお金を立て替えさせるんですね。そして、立て替えてもらったお金は返さない、最初から返す気もない。サークルの飲み代だけでなく、コンサートの時はその舞台に必要な経費を団員皆で頭割りするわけですけれども、そうしたお金も踏み倒し続けて、結局大学生活で何十万円というお金を踏み倒したんじゃないかなあと思います。サークルの会計の人も困って、年長だったこともあって皆を代表して私が彼を叱ったことがありましたが、すると彼は、「ああ、北村君、お金に困ったことがないんやわ」とこちらを馬鹿にしたような返事をするばかりで、何を言っても暖簾に腕押しでしたね。
  いい加減なことをやりたい放題して、それでいつも自分は正しいと思い込んでいる、他人に間違いを指摘されたら、「ああ、こんなことを言ってくるこの人がおかしいんやわ。自分の崇高な考えが分からないんやわ」と他人を馬鹿にして上から物を言ってくる、そんなどうしようもない人でした。最後はとんでもない事件を起こして、サークル内におれなくなって辞めていきましたけれども、今も反省なんかすることなく、周囲に迷惑、不快感をまき散らしながら生きているのでしょう。私が出会った中で一番しんどい人物でした。
  それから今に至るまで、なかなか彼を超える人物はいませんでしたけれども、それでも問題ある方に色々と出会って来まして、思わされたことがあります。それは、「トラブルメーカーと呼ばれる人には、何かパターンのようなものがあるな」ということです。皆、自分の非を認めないんですね。何かあっても「自分は正しい」と信じて、「周りのせいだ。周りがおかしいのだ」と思い込んで生きている。結果、成長しないでどこにいってもトラブルを起こし続けるわけです。
  反対に、何事も他人のせいにせず、自分としっかり向き合える人は、弱さや欠け、過ちを乗り越えて成長していきます。そうした人を私はこれまで何人も見てきましたし、本当に尊敬できる人、強い人というのはそうした人だと思うのです。ひるがえって、私たちはどのような人間になりたいでしょうか。
  確かに、己の罪を認めるということは勇気のいることでしょう。しかし、私たちを決してお見捨てにならない神様の愛を思う時、私たちは自分のありのままの姿を見つめる勇気が与えられます。なかなか己の罪や過ちを認めたがらない、そんな弱さと傾向を抱えた私たちですけれども、悔い改めこそ成長のチャンス、このことを強く信じて、しっかりと自分のありのままの姿に向き合っていきましょう。そして、罪を持った古い自分に死に、新しい自分へと生まれ変わっていきたいと願います。
              祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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