2020年11月 1日(日) 降誕前 第 8主日礼拝説教
 

「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」
 コリントの信徒への手紙一 13章 13節 
北村 智史

  今日は永眠者記念日の礼拝を神様にお捧げしています。この東京府中教会に縁を持たれた方々のお写真と名簿が礼拝堂の前に飾られていますが、これらを拝見して思わされるのは、少しずつ馴染みの方が増えてきたということです。私が東京府中教会に赴任して8年が経ちましたが、この教会で親しく交わらせていただき、また葬儀を司式させていただいた方のお名前が名簿に増えて参りました。そうすると、「ああ、あの方はいつも礼拝中、この辺りに座っておられたなあ」とか、「ああ、この方はあの時ご自宅にお伺いしたなあ」とか、これらの方々の思い出が次々に蘇ってくるのです。8年間この教会で信仰生活を過ごさせていただいただけでもこのように思い出が尽きないのですから、私よりももっとこの教会に長くおられる方はよりたくさんの思い出がこの日に蘇って来ることとお察しいたします。今日は既に神様の御許に召された信仰の先輩方を偲びつつ、これらの方々の生き方、信仰をしっかりと受け継いでいく、そのような恵みと慰めの一日を共に過ごして参りたいと願います。
  さて、今日は聖書の中からコリントの信徒への手紙一13:13をお読みいただきました。有名な使徒パウロの言葉です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。この言葉は、永眠者記念礼拝に集う今の私たちにとって大きな慰めではないでしょうか。
  本日追悼しています私たちの信仰の先輩方は、「信仰と、希望と、愛」、まさにこの3つに生きられたのです。イエス・キリストが十字架と復活の出来事を通して私たちの死を滅ぼしてくださったという福音の信仰に生き、それゆえ、私たちはどのような人生を送ろうとも、最後には神様の御許で永遠の命の勝利に安らかに憩うのであるという輝かしい希望に生きられました。そして、神様のその愛を受けて、自らもまた神様と隣人への愛に生きられたのです。パウロは言います。彼らのこうした「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と。これはつまり、信仰、希望、愛、この3つは、決してその人の死によって終わるものではないということです。実際、私たちの信仰の先輩方は死を経験された後も、神様の御許でこれら三つを抱いて神様を礼拝しておられます。その意味で、先輩方の信仰と希望と愛は、彼らの死後も天上において永続していきますし、この地上においても私たちの中に受け継がれていき、私たちを生かすものとしていつまでも残り続けます。今から2年程前でしたでしょうか、大学時代にお世話になったある恩師との地上での別れに際して、私はそのことを強く思わされました。
  その方は、榎本てる子先生と言います。榎本という名字を聞いて、ピンと来られる方もおられるかもしれません。「ちいろば」牧師として知られる榎本保郎先生の次女で、一昨年55歳で神様の御許に召されました。その生涯は、人との出会いを大切にし、愛し、愛されるつながりを切に求め続けた人生と言っても過言ではないでしょう。
  日本とカナダの神学校で学ばれ、カナダから帰国後はインド・コルカタにある「死を待つ人々の家」でボランティアに励まれました。インドから帰国後は日本基督教団の教会で奉仕され、正教師の資格を取得。その後再びカナダに渡り、大学やホスピスなどで牧会カウンセリングの実践研修を受けられました。帰国後はエイズ/HIV問題に取り組み、看護学校でのチャプレン、医療機関でのカウンセラーを担われました。
  1998年には、「違いを超えて人がありのままに受け入れられ、互いの価値観が尊重される社会づくり」の一環として京都市内にバザールカフェをオープン。カフェ運営や庭づくりを通して、滞日外国人や体力的な問題など、様々な事情で就労の機会を得にくい人たちに働く場所を提供されました。私も大学時代、何度かこのカフェに足を運ばせていただきましたが、今もこのカフェはたくさんの人々の憩いの場所となっています。また、それだけでなく、社会で起こっている課題などの情報提供の場、また活動団体間のネットワーク創りの場としての機能も果たしています。
  先生はさらに2002年に、大阪でHIV陽性者の支援を行うNPO法人CHARMを立ち上げられ、2008年からは関西学院大学神学部の准教授として学生たちに実践神学を教えられました。同志社大学にも臨床牧会訓練と呼ばれる病院実習の講師として来られたりして、私も牧会カウンセリングの基礎を教えていただきました。しかし、2007年から膠原病を患われ、2018年に病状が悪化し、京都市内の病院に入院。そのまま4月25日に急性肺炎のため亡くなられたのです。4月27日、28日と京都葵教会で行われた葬儀は、「それぞれに与えられている『いのち』を祝う会にしたい」、「虹色のようなさまざまな会にしたい」という先生の意向で、「Celebration of Life 〜いのちを祝う会〜」として執り行われました。当日、会場は喪服ではなく、鮮やかな服装を身にまとった人々で彩られ、延べ1400人が先生と地上でのお別れを告げるために参列したそうです。
  私は仕事のため、残念ながら出席は叶いませんでしたが、そのお話を聞いて本当に先生らしいなと思わされました。「虹色のようなさまざまな会にしたい」という先生のそのお言葉の通り、葬儀には、年齢や国籍、性別、病気、障がいなど、色々な背景を持つ多様な人々1400人が集まり、奇しくもそれらの人々が先生の生き方を象徴していました。イエス・キリストのゆえにすべての人々がありのままで神様に愛されている。永遠の命の祝福に入れられている。先生はその希望、また神様のその愛の祝福の中で人々が愛し愛される共同体を作り続けることに生涯を捧げられたのです。そんな先生の周りには自然と人が集まり、いつも笑顔を涙が絶えませんでした。多くの人が先生との繋がりの中に自分の居場所を見出したのです。
  先生の葬儀のお話を聞きながら、先生のその生き方を私もまた自分なりに受け継いでいきたいと思わされました。それは私だけでなく、先生の葬儀に参列した方全員の素直な思いだったと思います。先生が神様に召されても、このようにして先生の信仰や希望、愛が人々の心の中に種として受け継がれ、やがて芽生えていくのだなということを強く思わされました。パウロは言います。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と。この言葉はやはり真実です。その人が亡くなった後も、信仰と希望と愛、この3つは残された者の心に種として撒かれて受け継がれていくのです。
  今、私たちはこの礼拝堂で信仰の先輩方を偲びつつ、彼らと共に神様に礼拝をお捧げしていますが、これら信仰の先輩方の信仰と希望と愛も、私たちの心にしっかり種として撒かれて受け継がれていくことでしょう。それをどのように芽生えさせ、実らせていくかが、私たち一人ひとりに与えられた今後の課題となります。あるいはこういう風にも言うことができるでしょうか。信仰者の人生というのは機織りの人生で、これまで交わりをいただいた方々の信仰と希望と愛、この三つを縦糸に、あるいは横糸にしながら生涯をかけて自分だけの織物を紡ぎ上げていくのだと。私という織物に信仰の先輩方の人生を織り込んで、味わいと深みを増し加えていきたい、そして、そのようにして出来上がった織物をまた次の世代へと譲り渡していきたいと願います。
         祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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