2020年11月 8日(日) 降誕前 第 7主日礼拝説教
 

「みんな違って、みんな良い」
 創世記 11章 1〜9節 
北村 智史

  今日は幼児祝福の礼拝を神様にお捧げしています。この教会に子どもたちが宝物として与えられていることを皆で一緒に喜びたいと思いますが、この日に私が子どもたちに伝えたいのは、皆が神様に愛されているということに他なりません。神様にとっては一人ひとりがこの上なく貴い存在です。皆のためなら御自分の愛する独り子イエス・キリストを十字架につけても惜しくない。実際そうされたわけですが、神様はそれくらい皆のことを大切に思っておられます。今日はこのお話の後、7歳以下の子どもたちを祝福する一時を持ちますが、これらの子どもたちに神様の愛をしっかりと感じてほしいと思います。また、7歳以下の子どもたちだけでなく、大人も含めて皆が神様に愛されて神の子とされている、その喜びを皆で一緒に分かち合いたいと願います。
  さて、そんな今日は、聖書の中から創世記11:1〜9をお読みいただきました。有名な「バベルの塔」のお話です。このお話は、人間がなぜ色々な言語を話す色々な民族に分かれて世界中に散らばっているのか、その原因を説明する物語になっています。
  例えば、日本人は日本語を話しますよね。でも、世界中の人が日本語を話すわけではありません。アメリカの人は英語を話します。中国の人は中国語を話します。韓国の人は韓国語を話します。それぞれの国の人で話す言語はバラバラです。それで、お互いの言語に理解がなければ、言葉が通じません。それは昔々にこんなことがあったからなんだよ。今日のお話はそういう物語になっているんですね。
  もともとそういうお話が伝説として、パレスチナ、メソポタミア辺りの地方で非常に古くから言い伝えられていたわけですが、聖書に収録されているこの「バベルの塔」のお話は、そこに「バビロン捕囚」というユダヤ人たちの歴史的な体験が重ねられて出来上がったものだと考えられています。
  「バビロン捕囚」というのをご存じない方もおられると思いますので、簡単に説明しておきましょう。紀元前6世紀のことです。ユダヤ人たちの王国、ユダ王国と言いますが、このユダ王国はバビロニアという帝国に滅ぼされてしまいました。この時、主だった人々が捕虜としてバビロニアの都バビロンに連れて行かれたんです。これが「バビロン捕囚」です。
  バビロンというのはすごい町で、町全体が城壁に囲まれ、高い建物が建ち並び、ジックラトと呼ばれるバビロンの神々を祭る一際高い塔がそびえていました。捕虜として連れて来られた人々は、見たこともない巨大な都市の威厳のある姿に肝をつぶし、身震いしながら、「ああ、これは勝てないよ」と自分たちの敗北の運命を噛み締めたことでしょう。しかしそれと共に、世界をも征服する勢いの支配者の力を見せつける巨大な都市の有り様に、罪と悪の深さを感じ取ったのです。
  創世記11章の「バベルの塔」の物語には、遠い昔の伝説に、このようなユダヤ人たちの歴史的体験が重ねられています。実は、バビロンのことをヘブライ語で「バベル」と言うんですね。つまり、「バベルの塔」とは、実はバビロンのことを名指しで批判する物語に他なりません。
  「一つの民で、皆一つの言葉を話している」、つまり一つの町が大きな力で世界を一つの民、一つの言葉にまとめ上げ、そびえ立って神様になり替わろうとする、そんなバビロンの企ては神様の御心に沿わない。神様は必ず怒りを下される。そうして神様は、この愚かな企てを失敗させ、多くの言葉の、多くの民族がそれぞれの地に住む世界をもたらされる。そうしたら、自分たちは自由だ。「バベルの塔」には、ユダヤ人たちのそんな思い、そんな希望が込められているのです。
  今日の聖書個所を読みまして、私は色々なことを思わされました。まず思わされたのは、一つの町、一つの国、一つの民族が力によって無理やり他の町、他の国、他の民族を同化してしまう、そうして一つにまとめ上げてしまう、そうしたことが歴史上至るところで起こって来たし、今も起こり続けているんだけれども、そうしたことは神様の御心ではないということです。そうではなく、色々な文化の違う暮らしが守られる、そして色々な町、色々な国、色々な民族がその多様性を輝かし合って皆で一緒に生きる平和な世界を築いていくことこそ神様の御心なのだと思わされました。
  その他にも思わされたことがあります。それは、多様性を排した形で上から一つにまとめられるのは神様の御心ではないのだなということです。しかし、今の日本の教育はどちらかと言えば、そういう教育ではないでしょうか。それぞれの個性を重視する、多様性を素晴らしいと認め合うよりも、集団の秩序を乱さない、そういう紋切り型の優等生タイプの人間を育てることを、これまで日本の教育は目的として来なかったでしょうか。よく「日本の社会は同化か排除を迫る社会だ」と言われますが、私はそういう教育が日本の社会の、自分と異なる者を異なる者として認め、その多様性を尊重し、共に生きていこうとする精神に甚だ欠けた風潮を生み出しているように感じられるのです。
  みんなも、「全員、同じような人間になりなさい」と言われるよりも、「みんな違って、みんな良い」と言われる方が良いよね。皆違うからこそ、私たちは一つに集まった時に思いがけない大きな力を発揮していくことができるんです。
  このことと関係することですが、私は大学にいた時、オーケストラと言って、色々な楽器で一つの曲を演奏する、そういう部活に参加していました。オーケストラにはどんな楽器があるか知っていますか?弦楽器ではみんなが良く知っているヴァイオリン、それよりも少し大きくて低い音が鳴るヴィオラ、座って弾くチェロ、立って弾く大きなコントラバス、木管楽器ではフルートにオーボエ、クラリネットにファゴット、金管楽器ではトランペットにトロンボーンにホルン、打楽器ではティンパニー、曲によってはこれにピアノがついたり、ハープがついたり、スネアという太鼓がついたりします。みんなはどれだけの楽器を知ってるでしょうか?大切なのはどれ一つとして、同じ音色は存在しないということです。
  同じドの音を出しても、ヴァイオリンとフルートでは音が違うし、クラリネットとトロンボーンでも全然違う音がします。もしも一つの楽器だけで、どの音階でもいいんだけど同じ音を出していたら、つまらないですね。それぞれがそれぞれの音色を持っていて、色々な音を合わせるからものすごくスケールの大きい深みのある曲を演奏できるんです。
  私たちも一緒です。今ここにはたくさんの仲間がいるけれど、誰一人として同じ人はいなくて、それぞれがそれぞれのかけがえのない音色、個性、賜物を神様から与えられています。そして、神様のもとでそれぞれがそれぞれに与えられた賜物を活かして協力し合う時、私たちは一つの家族として大きな愛をみんなに示していくことができるのです。
  「みんな違って、みんな良い」。神様は私たち一人ひとりを心から大切に思いながら、そのみんなを御自分のもとに招いておられます。この神様の愛に応えて、互いに思いやり、支え合いながら、一人ひとりに与えられた賜物を豊かに発揮して、私たちを温かく包み込んでくださる神様の愛を告げ知らせていく素敵な曲を創りあげていきましょう。神様はその真ん中で、いつもみんなの上に優しく手を置いて祝福してくださっています。

       祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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