2020年11月 22日(日) 降誕前 第 5主日礼拝説教
 

「信仰のアキレス腱」
 創世記9章 18〜28節 
北村 智史

  皆さんは、尊敬する人が思いもかけずスキャンダルを起こして失望させられたという経験をしたことがあるでしょうか。私はと言えば、今年の8月末の出来事だったでしょうか。そういう経験をいたしました。京都精華大学講師の白井聡さんという方がおられまして、私は以前からこの方のご本を読み、大きな感銘を受けていたのですが、フェイスブックでシンガーソングライターの松任谷由実さんについて、「早く死んだほうがいい」などと口にするのも憚られるようなひどいことを書き込みまして、大きく炎上したのです。
  白井先生は以前から安倍前首相を鋭く批判してきた人物でしたから、安倍前首相の辞任に際し、松任谷さんがそれをねぎらうような発言をしたのが癇に障ったのでしょうか。それにしても、大病したことのある人に向かって「夭折すべきだった」、「早く死んだほうがいい」などと言うのはひどすぎます。私自身、尊敬していた学者でしたので、そのニュースを聞いた時、何とか心の中で先生をフォローしようとしたのですが、さすがにフォローできなくて、「不適切な発言をなさったなあ」とがっかりさせられました。
  しかし、だからと言って、その時のメディアみたいに白井聡さんという存在を全否定して蔑むようなことはできず、「あれほど鋭い主張をなさる優れた学者が、なぜこんな人間的に幼稚なことを」と、もやもやした思いに苛まれました。これまで先生のことを尊敬してきた思いと、今回失望させられた思いの狭間で、自分は先生に対し、どのような感情を抱けばよいのか分からなくなってしまったのです。結局、「どんな人間も完璧ではないんだな」と気持ちを落ち着けましたが、皆さんもこういう経験はないでしょうか。
  日頃尊敬し、立派だと思っていた人に思いがけず尊敬できない事柄が生じた時、私たちは戸惑います。そして、今日聖書個所に選ばせていただきました創世記9:18〜28も、ある意味ではそんな話ではないかと私は思うのです。
  ここに登場するのは、ノアとその息子たちです。ノアと言えば、何と言ってもその洪水の話、箱舟の話が有名ですが、今日の聖書個所のお話はそれから後の出来事に他なりません。地上に人の悪が増す中で、ノアだけが神様の御前に正しい人であると認められ、主の好意を得て、家族と共に、またつがいの動物たちと共に箱舟に入るよう言われた、そして洪水から救い出された。しかし、その後に記されているこのお話では、ノアはとんでもない醜態を演じています。何とぶどう酒に酔っ払い、裸で寝てしまうのです。しかも、そのことを他の兄弟に告げ口した息子(※前半の文章ではこの息子が次男のハムとなっていますが、後半の文章では「末の息子」、「カナン」になっています。実は「ノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった」という伝承にはもう一つ伝承がありまして、そこでは「ノアの息子は、セム、ヤフェト、カナンであった」とされているのです。そして、今日の聖書個所ではこの二つの伝承が混ざってこんなつじつまの合わないことになっているわけですが)、いずれにせよノアは自分の醜態を告げ口した息子に対して、怒りに任せて「呪われよ」と、神様の名前をだしに使って自分の呪いの言葉を投げかけています。
  ここで描かれているのは、義人、すなわち神様の御前に正しいとされた人とは程遠いノアの姿に他なりません。箱舟、洪水のお話を読んだ人は、今日のお話を読んで、それとは違う描き方をされているノアにがっかりさせられることでしょう。では、創世記の編集者は、なぜ義人ノアのお話、すなわち洪水、箱舟のお話の後に、そんな醜態を演じるノアのお話をあえて入れたのでしょうか。創世記の編集者はこのお話を通して、私たちに何を訴えたかったのでしょうか。
  私はそれは、人間の罪の本質と神様の憐れみ深さだと思います。私たち人間は本当に欠け多く、罪深い存在で、それは義人とされたノアであっても例外ではないこと、それくらい私たちは罪深く不完全な存在なのだということ、にもかかわらず、神様は一方的にノアを義と見なして洪水から救い出し、その後は人間と虹の契約を結んでくださるほど憐れみ深くあられるのだということ、この事実、イエス・キリストの十字架の愛にもつながるこの事実を、創世記の編集者は私たちに伝えたかったのでしょう。
  では、私たちは聖書のこのメッセージから何を学ぶべきでしょうか。冒頭でお話しましたように、私たちは日頃尊敬し、立派だと思っていた人に失望する点を見出した時、その失望のゆえに戸惑います。そして、しばしばその一点を持ってその人全体をマイナスに評価してしまうということをやります。その人の立派な面は全部見えなくなってしまう。場合によっては、その人を偽善者呼ばわりする。しかし、こういう見方が、人と人との間を裂き、教会という共同体を破壊してきたのではなかったかと、内坂晃先生という牧師がある説教集の中で語っておられます。
  そして、内坂先生は犬養光博牧師の「信仰のアキレス腱」と題する実に興味深い文章を紹介しておられますので、これを皆さんにもご紹介しましょう。
「『他のことでは、あんなに信仰的な人がどうして、御自分の仕事のことになるとあんなに片意地になられるのだろう』……『他のことでは、ちゃんと筋がとおっているのにどうして、結婚のことについては、こんなにダメなのだろう』……他の事では、全く模範的なのに、一つの事だけは全くダメなのだ。……人間は誰でも、一つや二つのこういう『アキレス腱』を持っているものなのだ。そして幸なことに、Aにとっての『アキレス腱』と、Bにとっての『アキレス腱』はちがう。Aは、自分の『アキレス腱』はなかなか見えないし、見えてもなかなか克服出来ない。しかし、隣りにいるBの『アキレス腱』はよく見えるし、Bが克服出来ないでいるものを自分は何んなく克服していることがわかる。そこでAはBの『アキレス腱』を指摘し、その克服のための重荷を負う。逆にBはAの『アキレス腱』を指摘し、克服のための重荷を負う。『教会』の交わりとは本来こういうものではなかったろうか。」
  内坂先生は犬養先生のこの言葉を引用し、しかし、「私たちは相手の人格の故に相手の『アキレス腱』をカバーしてみるのではなく、相手の『アキレス腱』の故に相手の人格全体を斥けてきたのではないでしょうか。また、今もそのような目で人を見ているのではないでしょうか」と私たち一人ひとりに問うておられます。ひとたび相手の「アキレス腱」を知った者は、他の面で相手がどれほどすばらしくても、なかなか今までのようには相手を信頼できなくなってしまう。それが自分なら容易に克服できること、自分なら絶対にそんなあやまちはしないと思われることならなおさらである。相手の人格の故に、その「アキレス腱」をカバーしてみることは、きわめてむつかしくある。ましてや、相手の欠点を自らが担う覚悟をすることはさらにむつかしくある。私たちは、ただ相手のその欠点を非難することに終始しがちではないか。特に相手のその欠点の矛先が自分に向けられ、そのために自分が深く傷ついた時は、そうではないか。こうした内坂先生の言葉は、教会の、またその他の様々な所での人間関係に悩む私たちにとって、非常に重い意味を持っていると言えるでしょう。
  では、私たちはどのようにして「アキレス腱」をも抱えた人との交わりを築いていけば良いのか。内坂先生は内村鑑三と彼のもとに集まった人々の話をしながら、これを語っておられます。
  内村は一方では「柏木の聖者」と呼ばれ、他方では彼の人身攻撃をするための単行本が出たような人物でした。多くの人が彼の魅力に惹かれて彼のもとに集まり、そして、彼の欠点に躓いて去っていったのです。しかし、内村の下に残り、内村の志を継承した人々は、内村自身ではなく、内村を生かして用いたもう神様御自身に目を注ぎました。かの天達文子さんは、内村が「僕が死んだら、人々はいろいろなことを言うだろう。偉人だとか、何だとか。そしたら書いとくれ、僕が十字架にすがる幼児にすぎないことを」と言ったと記しておられます。南原繁にしても藤井武にしても矢内原忠雄にしても、皆、欠点多き人間内村の姿の背後に、この十字架にすがる幼児としての内村を見ていたのです。いや、それ以上にこの内村を生かし、用いたもうキリストを仰いだのです。これこそが、お互い「アキレス腱」を持った私たちに主にある一致を守らせるものであると内坂先生は語っておられます。
  ともすれば「アキレス腱」のゆえに人を裁きがちな私たちではありますけれども、人の傷、人の欠点をも豊かに包みこんで愛し、用いたもう神様のその愛を仰ぎながら、「アキレス腱」をカバーし合う豊かな人間関係をこの教会で形作っていきたいと願います。そうして、私たちの交わりを通して、神様の愛と福音とをどこまでも広く宣べ伝えていきましょう。
お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――
 

 
 
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