2020年12月 6日(日) 待降節 第 2主日礼拝説教
 

「隣人を限定してしまう悲劇」
 ローマの信徒への手紙 16章 25〜27節 
北村 智史

    先月の12日から13日にかけて、日光と白河に研修旅行に行ってきました。日光では「日光神領(神社の所有地)と被差別部落」の関係について、色々お話を伺ったりフィールドワークをしたりしてきたのですが、白河ではアウシュビッツ平和博物館を訪れ、館長さんのお話を聞くと共に、そこに展示されているものを見てきました。
  皆さんもご存じのように、アウシュヴィッツは、第二次世界大戦時にナチス・ドイツが占領地ポーランドに建設した最大規模の強制収容所です。ユダヤ人ホロコーストの現場となり、150万人の尊い命が奪われた同収容所跡は、広島の原爆ドームと同様に『人類が二度と繰り返してはならない20世紀の負の遺産』として、ユネスコ世界遺産に登録され、ポーランド政府が国立博物館として保存しています。福島県の白川にあるアウシュヴィッツ平和博物館では、その国立博物館から借り受けた犠牲者の遺品・資料や記録写真、当館所蔵のアンネフランク関連写真・資料等の展示を行っています。
  それらを拝見しながら、私はなぜこれほどまでに残酷なことが行えたのか、愕然とさせられました。そして、あることに気付かされたのです。それは、収容所を管理するナチス・ドイツの人々が収容された人々をまるで人間と見ていないということでした。収容所ではユダヤ人だけでなく、障がい者や同性愛者なども次々とガス室に送られて殺されていったのですが、ナチス・ドイツの人々はこうした人々を自分と同じ人間とはまるで見ていなかったのです。一度目の前の人を己の隣人というカテゴリーから外してしまうと、人はここまで残酷になれるのかと怖くなりました。
  そして、思わされたのです。ある人を自分の隣人から除外してしまう、そして自分の隣人を誰かに限定してしまうということをやるのは、決してナチス・ドイツの人々だけではないと。私たちもまた普段の生活の中で、たとえば「あの人は私に良くしてくれるから好き。付き合おう」、「あの人は私に嫌なことをしてくるから嫌い。お付き合いしないようにしよう」といったように、目の前の人を、自分の隣人とそうでない人々に分けてしまっているのではないでしょうか。そして、嫌いな人、自分の隣人から除外してしまった人に対しては、困っていても知らんぷりといったように、とことん冷たくなってしまえるのではないでしょうか。
  そのように考えた時、アウシュビッツ収容所で起きた悲劇を、「あれはナチス・ドイツという特別罪深い、特別異常な人々が行った行為だから」と、自分とは切り離して考えることはできないと思ったのです。私たちの誰もが、ある人を自分の隣人から除外し、そして自分の隣人を誰かに限定してしまうということをやります。そして、自分の隣人から除外された人に対しては、冷たくしたり、攻撃したり、何かあっても知らんぷりを決め込んだりと、とことん冷酷になってしまいます。その罪が、これまで至る所で差別や無関心、戦争や紛争といった数々の悲劇を生み出してきましたし、今も生み出し続けているのです。その意味で、アウシュビッツの悲劇は決して私たち一人ひとりと無関係ではない、私たち人間の罪が究極的な形で噴き出してしまった、そんな出来事だったと言えるでしょう。
  ある意味でクリスマスの出来事というのは、そういう己の隣人を誰かに限定してしまう人間の偏狭さの罪を神様が打ち破る、そういう出来事だったと私は思うのです。
  イエス様の時代、ユダヤ人たちは自分たちだけが神様に救われると信じ、その他の人たち、つまり異邦人(ユダヤ人以外の人々)については、彼らは神様に救われない罪人だとして差別し、愛する対象から除外していました。ユダヤ人たちは異邦人たちが困っていても手を差し伸べない、そもそもそんなことをする必要はないと考えていたし、人付き合いもしなかったそうです。また、病人や障がい者など、そうした人々は自分が犯した罪のために神様の罰を受けてそのようになっているのだと考えて、こうした人々も罪人として差別し、愛する対象から外していました。自分の隣人、自分が愛する対象は、自分と同じユダヤ人、それも罪人ではない「正しい」ユダヤ人のみ。これがイエス様の時代のユダヤ人の常識だったのです。
  けれども、神様は今からおよそ2000年前にイエス様をこの世にお遣わしになり、ユダヤ人だけでなく、異邦人も含めたすべての人々の救いの道を開いてくださいました。すなわち、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」、イエス様はそのように仰られ、当時罪人と見なされ、社会から疎外されていた人々と共に生きられたのです。そして、その十字架と復活の御業を通して、異邦人も、罪人と見なされた人々も含めた、すべての人々の救いを成し遂げてくださいました。そして、イエス様は自分の隣人、自分の愛する対象を誰かに限定してしまうのではなくて、すべての人々が互いに隣人として愛し合う道へと私たちを招いておられます。
  イエス・キリストを通して、すべての人が神様の救いに入ること、そして、すべての人が、「この人はユダヤ人だから」、「この人は異邦人だから」、「この人は罪人だから」といったような条件を付けずに互いに愛し合うようになること、これこそが神様の秘められた計画だったのであり、クリスマスはそのための出来事に他なりません。そして、福音とは、この計画を啓示するものであり、この計画は聖書を通してすべての異邦人に知られるようになったと今日の聖書個所は語っています。救いの輪、愛の輪がユダヤ人という垣根を超えてどこまでも広がっていった事実を、今日の聖書個所は伝えているのです。そして、「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように」と、人智を遥かに超えた神様に讃美が捧げられています。
  この讃美を、クリスマスを目前に控えた今の私たちも神様にお捧げしたいと願います。ともすれば、己の隣人、己の愛する対象を限定してしまいがちな罪深い私たちですが、際限なく広がっていく神様の愛にふさわしく、その愛の対象をどこまでも広げていきましょう。そうして、この世界を無限の愛、無償の愛で満たしていきたいと願います。
         祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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