2020年12月13日(日) 待降節 第 3主日礼拝説教
 

「すべての人に居場所を」
 ローマの信徒への手紙 13章 12節 
北村 智史

  アドヴェントも第3主日を迎え、来週はいよいよクリスマス礼拝の日です。毎年、イエス様御降誕の日が近づいてくるにつれて、町ではクリスマス・ムードが深まってきます。あちこちでクリスマスソングが鳴り響き、イルミネーションやクリスマス・ツリーが飾られて、楽しい、めでたい雰囲気が高まっていきます。今年は新型コロナウィルスのため、感染症予防の観点から、例年に比べますとクリスマスのイベントは控えめですが、それでもテレビのコマーシャルではサンタクロースが頻繁に登場し、クリスマスセールの広告があちこちで目に付くようになってきました。今年は暗いニュースばかりの苦難の年、忍耐の年でしたから、その分、久しぶりの嬉しいシーズンの到来に人々の心が沸き立っているのを感じます。日本で最も浸透したキリスト教のお祭り、クリスチャン以外の人も含めて日本全体が盛り上がるお祭り、それがクリスマスです。
  しかし、その盛り上がり方には、問題も感じます。おそらく日本でクリスチャン以外の人に、クリスマスというとどんな日ですかとインタビューすれば、大勢の方が、サンタクロースがやって来る日とか、恋人と仲良く過ごす日とか、孫にプレゼントを買ってあげる日とかいった答えをすることでしょう。きっと皆さん、楽しいイメージを答えてくれることと思うのですが、しかし、その反面、イエス様のお誕生日、イエス・キリストの降誕日ということがどれほど意識されているか、疑問に感じます。クリスマスがイエス様のお誕生日だということは、きっと皆さん、知識としては知っていると思うのですが、しかしそのことをクリスマス・シーズン、特に意識することなく過ごしているというのがクリスチャン以外の人々の本音でしょう。巷に溢れているクリスマスにつきものの風景や要素は、イエス様が誕生して生きたガリラヤでの歴史的な現実とはほとんど無関係なものになっていて、イエス様誕生の出来事が西洋の文化から入ってきた単なるお祭りに成り下がってしまっています。
  そのような中にあって、私はクリスマス礼拝を来週に控えたこのアドヴェントの時にこそ、歴史に生きたイエス様に思いを馳せ、また福音書を通して証されるイエス様誕生の意味、イエス様の生き様、そして十字架の死に至る生涯を思い起こしたいと思うのです。そして、今も生きて共にいてくださるイエス・キリストに思いを向けながら、クリスマスの本来の姿を取り戻したいと願います。
  さて、今日は聖書の中からイザヤ書7:14を取り上げさせていただきました。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」。イザヤのこの預言はインマヌエル預言と呼ばれ、マタイによる福音書のイエス様誕生の場面でも出てきます。つまり、マタイによる福音書では、イエス様誕生の出来事がまさにこのイザヤのインマヌエル預言の成就に他ならないと考えられているのです。かつてイザヤが預言したように、イエス様において、「おとめが身ごもって、男の子を産」むということが起こった。これこそ救いのしるしであり、イエス様のその名前は「インマヌエル」と呼ばれるようになるだろう。「インマヌエル」というのは、「神は我々と共におられる」という意味ですが、マタイによる福音書の記者は、イエス様を通して、神様が私たちを決して見捨てることなく、いつも私たちと共に、私たちのすぐそばにいてくださっていること、そのお支えと御臨在が感じられるようになると私たち一人ひとりに訴えているのです。
  そして、実際にイエス様はその御言葉通りに生きられました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」というその御言葉に象徴されるように、イエス様は当時の社会の中で「罪人」というレッテルを貼られ、社会から疎外されていた人々と共に生き、そのように人々を抑圧するユダヤ教の律法主義体制と闘い、十字架と復活の出来事を通して、ユダヤ人だけでなく、異邦人も含めたすべての人々の救いを成し遂げてくださったのです。
  イエス様のそのご生涯を振り返ってみれば、神様が私たちと痛みを共にしながら、私たちと共に、私たちに寄り添って救いへと導いていくためにあえて人となられたのだということが良く分かります。強調しておかなければならないのは、その私たちの中には、様々な不条理の中で弱く小さくされている人々が含まれているということ、いや、むしろそうした人々こそが、神様にとって最も優先的に気に掛けるメインの人々に他ならないということでしょう。神様はまことに「インマヌエル」の神様で、「我々と共におられる」、その中でも特にこの世の中で弱く小さくされている人々と率先して共におられる神様に他なりません。
  こうした人々の救いのためにこそ、神様は今からおよそ2000年前に人となってこの世に降って来られた。そのことを思うならば、私たちはクリスマスにおいて、今の社会の中で弱く小さくされている人々とは誰か、こうした人々の救いのために私たちにできることとは何か、もっと関心を持たなければならないはずです。現代でも、賑わう社会のあちこちに片隅に追いやられ、居場所を失っている人々が大勢いるのですから。今日は話の冒頭、日本のクリスマスの雰囲気についてお話をしましたが、そうした人々を無視してただただ楽しく盛り上がるだけのクリスマスが今現在幅を利かせてしまっているのだとしたら、私たちは悔い改めなければなりません。それは、出産間近の夫婦を誰も宿に泊めてくれなかったあのクリスマスの悲劇、無関心の罪を、私たちが繰り返す行為に他ならないからです。
  クリスマス礼拝まであと一週間。この時期に、私たち、改めて自分たちはどこに足場を置き、どこに思いを向けて生きようとしているか、問い返していきましょう。イエス様のその生涯を思い起こし、この世の中で痛み苦しむ人と共に生きる道に繋がっていきましょう。その時に、私たちは本来の意味でクリスマスを祝うことができるはずです。そして、この東京府中教会を、すべての人にとっての心安らぐ居場所にしていくことができるはずです。
  このことに関連して、日本同盟基督教団・多治見中央キリスト教会牧師の山本陽一郎先生がクリスマスの説教集の中でこんなことを語っておられます。「幾多の困難を乗り越えてベツレヘムにやって来たヨセフとマリアのように、教会にも、様々な人生の道のりを経て、勇気を振り絞るようにして初めてやって来る方々がいます。特にクリスマスの季節は、教会に初めて足を運んでくださる方が一年で最も多い時期かもしれません。教会は、そんな方に『居場所』を提供しているでしょうか。もちろん、いつもの仲間同士で親しく語り合うことは楽しいものですし、担当している働きに打ち込むことも大切です。でも、新しく教会に来てくださった方に目を留め、心からお迎えすることも、本当に大切な愛のわざなのです。若い人たちの居場所は、教会にあるでしょうか。ご高齢の方の居場所はあるでしょうか。疲れや弱さをおぼえている方、マイノリティーの方にとってはどうでしょうか。一人一人が、自分もここにいてよいのだと感じられるような、そんな交わりと場所をみんなで作っていきたいものです」。
  私も同感です。居場所のない人々の所に、貧しさの中に、主イエス・キリストは生まれて来られた。このクリスマス、そのメッセージをしっかりと心に刻み込んで、教会をすべての人々の居場所として備えていきたい。そうして、イエス・キリストと同じように、痛みや苦しみを抱えた人々と共に生きていきたいと願います。
            祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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