2020年12月27日(日) 降誕節第1主日礼拝説教
 

「礼拝者として生きる」
 マタイによる福音書 2章 1〜12節 
北村 智史

  今日は年末礼拝を神様にお捧げしています。早いもので、今日が今年最後の礼拝となりました。今年一年間、神様からいただいた恵みを改めて心に刻む一日を今私たちは過ごしているのですが、ふり返ってみれば今年は苦難の年、忍耐の年であり、神様からのお支えや導きが無ければ到底乗り越えることのできない年であったように感じられます。
  新型コロナウィルス感染症拡大のため、二度にわたって会堂での礼拝を休止することを余儀なくされ、今も短縮した形の礼拝を強いられています。神学がこれまで想定して来なかった未曽有の事態の中を、私たち、手探りで歩んできたわけですが、そのすべてが的確な判断であり、正しいと言えるものだったかどうかは分かりません。そこには様々な意見があり、後の検討を必要とすることもたくさんあると思います。
  しかし、会堂での礼拝を休止しても、短縮した形の礼拝を神様にお捧げすることになっても、私たちが貫いたことが一つあります。それは、私たち一人ひとりが神様の礼拝者として生きたということです。教会に集えない時もあった、しかし、神様を礼拝する者として、それぞれの人がそれぞれの場で神様を讃美し、神様を生活の中心に据え、主によって結ばれた仲間のことを思いながら、神様の御心を尋ね求め、神様に思いのすべてをお委ねして生活を営んできました。私はこれが崩れない限り、教会という共同体が崩れることはないだろうと確信しています。まだまだ先の見えない時期が続いていきますが、今年一年間貫いてきたように、来年もこの「一人ひとりが神様の礼拝者として生きる」ということを大切にしながら、希望を持って歩んで行きたいと願っています。
  さて、そんな今日は、聖書の中からマタイによる福音書2:1〜12を取り上げさせていただきました。東の方から占星術の学者たちが、生まれたばかりのイエス様を礼拝しにやってくる場面です。毎年、クリスマスの後の降誕節、また新年が明けた後のエピファニーの時期に読まれることの多い聖書箇所であり、これまでも何度か説教の中で取り上げたことのあるお話だと記憶しています。毎回、説教に取り組むたびに違った示唆を与えられて、このお話が持つメッセージの多様性に感心させられます。
  これまでも、この占星術の学者たちが、最初はこの世的な価値観に支配されてベツレヘムにやって来たことに着目し、そうしたこの世的な価値観の中にいる間は私たちは主に会えないのだ、低きに降られる主の御心を理解する砕かれた心でなければ、このクリスマス、私たちは主に会うことはできないといったお話をしたこともありました。また、学者たちが献げた黄金、乳香、没薬が彼らの仕事道具であり、これまでの人生を象徴するものだったことに着目して、彼らはそれまでの生き方そのものをイエス・キリストの御前に献げたのだ、私たちもまたこのクリスマス、それまでの古い生き方を主の御前に献げて、新しい生き方を始めようではないかといったお話をしたこともありました。
  いずれも含蓄のあるクリスマスのメッセージですが、今日はまた一つ見方を変えてみようと思っています。2節の御言葉、すなわち、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」という学者たちの言葉に着目しようと思うのです。この言葉によれば、学者たちはメシア(救い主)を拝むためにはるばる旅をしてきたのでした。しかし、このことは決して当たり前のことではありませんでした。ある注解書の中で占星術の学者について、ある牧師がこんなことを書いています。
  「東方の学者たちは占星術の専門家であり、特定の技術を用いて、政治や経済、社会や天候などについて、未来予測を立てることを生業としていたスペシャリストであり、プロフェッショナルであった。彼らはその専門技術を請われて、人々に必要なサービスを提供することが求められたわけであり、ある意味では中立的な立場から、そしてさらに言えば傍観者的な立場から、その仕事を正確に果たすことが求められていたのだと言えよう。」
  つまり、占星術の学者というのは、例えばその占いの結果、何日後にどこそこで大災害が発生するということが分かっても、また何週間後にどこそこで戦争が勃発するということが分かっても、それを一つの情報として冷静に報告することが仕事であって、その占いの結果に自分が積極的に関わっていくというようなことはしない人たちだったと言うのです。
  しかし、今日の聖書個所では違いました。彼らは奇妙な星を発見し、そこから一つの情報を引き出そうとします。観察し、分析し、様々な研究報告や諸々の文献と突き合わせた結果、どうやらそれは「救い主の誕生」を告げるしるしであることを彼らは突きとめました。問題は、その後のことです。こうした結論をまとめて記録に留め、報告書を作って、「さあ今日も一日の仕事が終わった」と言って帰宅してしまうことも彼らにはできたはずです。しかし、不思議なことに、彼らはそうしませんでした。彼らはその星の情報に基づいて旅立ち、あえて自分の生活の場を離れ、遠く危険な旅に出発します。それは自分たちの研究結果を確かめるためでもなければ、「救い主」の誕生という歴史的イベントを見物するためでもありませんでした。2節の言葉から窺えるように、彼らは「救い主」を「拝みに行く」ために自ら危険を冒して旅立ったのです。
  先程の牧師は注解書に書いています。「『拝む』こと、何ものかを礼拝するということは中立的なことがらや傍観者的なことがらではありえない。人は何を拝むかによって自分自身の価値観を告白し、自らの人生の根拠を確認する。彼らは学者、専門家、技術者としてではなく、ひとりの人間として旅立つのである。……なぜか彼らはその星が自分たちに呼びかけていると信じた。その星が自分たちの人生、自分たちの価値観に何か決定的なものを伝えていると信じたのである。クリスマスは客観的な出来事ではありえない。学者たちが見た星は、今この時代の私たちにも呼びかけている。私たちに旅立つ準備はあるのだろうか」と。
  クリスマスを迎えた後の降誕節のこのシーズン、私たちもまた今日のお話に出て来た占星術の学者たちのように、「救い主」を自らの価値観の中心に据え、自らの人生の根拠として、すなわち礼拝者としてこの世の中に旅立っていきたいと願います。そして、未だにイエス・キリストに対して中立的な立場、傍観者的な立場を取っている人々に、礼拝者として、神様に応えて生きる喜びを訴えていきたいと願います。
  願わくは、神様が来年の私たちの宣教の業をも豊かに導き、祝福してくださいますように。今年一年の神様の御恵みに改めて感謝を捧げ、来年も力強く、皆で一緒に神様の御用を果たして参りましょう。

            お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 

 
 
Copyright© 2009 Tokyo Fuchu Christ Church All Rights Reserved.