2021年 7月 18日(日) 聖霊降臨節 第 9主日・礼拝説教
 

「問題があっても順調」
 マルコによる福音書 1章 16〜20節 
北村 智史

  皆さんは「浦河べてるの家」というのをご存じでしょうか。「べてる」というのは「神の家」という意味ですが、この「浦河べてるの家」というのは、1984年に設立された北海道浦河町にある精神障がい等をかかえた当事者の地域活動拠点のことで、ここを拠点に精神障がい等を抱えた人々が地域で暮らし、「当事者研究」や日高昆布の販売などを通じて地域の祝福となっています。まさに「障がいで町おこし」というのが実践されている、そんな興味深い施設なのですが、今日はこの「浦河べてるの家」の思想、考え方から、生き方のヒント、また私たちが教会という共同体を形作っていく上でのヒントを学んでいきたいと考えています。
  さて、そんな今日は聖書の中からマルコによる福音書1:16〜20を取り上げさせていただきました。イエス様がシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子にする場面です。イエス様に呼ばれて弟子となったこの4人は漁師だったと聖書には記されています。ではなぜ、イエス様は漁師という職業の人をあえて御自分の弟子に選ばれたのでしょうか。
  こうした疑問は、有名な十二使徒の名前のリストを読んでいても心に浮かんできます。マタイによる福音書10:2〜4を読んでみましょう。「十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである」。既に見た通り、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは漁師です。その他にも下っ端の徴税人であり、貧しいだけでなく、「罪人」と見なされ、人々から蛇蝎のように忌み嫌われていたマタイがリストに名前が入っている他、「熱心党」と呼ばれる過激派グループに所属していたシモンもリストに名前が入っています。イエス様が弟子たち、十二使徒に選ばれたのは、当時の人々からは蔑まれていた人たちばかりでした。ではなぜ、イエス様はあえてそのような人々を弟子たち、十二使徒に選ばれたのでしょうか。
  聖書を読んでいくと、イエス様がお選びになった人々が当時の人々から蔑まれていただけでなく、欠けも弱さも多い人々だったことが良く分かります。彼らは喧嘩したり、大事な時に眠っていたり、イエス様が逮捕されてしまった時には逃げ出してしまったりと、失敗続きでした。そうした記事を読むにつけ、もっと優れた人々、当時のいわゆるエリートたちを弟子に選べばよかったのにと思わされます。しかし、イエス様はそうはされなかった。問題があっても、イエス様と行く旅の途上に問題が次々に起こっても、むしろ「それで順調!」と、天に帰って行かれるまでの地上での歩みを弟子たちと共に過ごされたのです。
  「問題がないことが良いこと」ではなく、「問題山積み」の旅がイエス様にとっては「それで順調!」。こうした聖書解釈が「浦河べてるの家」の思想の基本となっています。「浦河べてるの家」で行われているのは、一般的な医学による治療とはまた違った精神障がいへのアプローチに他なりません。
  精神科などの病院では薬などで症状を抑えつけ、問題行動を止めさせる、そうしていわゆる「健常者」の社会に復帰させるということに目的が置かれます。カウンセリングでも、たとえそれがクライアント中心療法によるものであったとしても、問題を起こす側を何とか指導して、その問題を無くすということに焦点が置かれるということは否めないでしょう。
  しかし、「浦河べてるの家」で行われるのは、そうした治療では決してありません。精神障がいを「具体的な暮らしの悩み」として捉え、それを仲間どうしで共有しあい、その問題を生き抜くことを選択するということが行われます。その方が実は生きやすいという考えです。そして、そのために行われるのが「当事者研究」です。
  これは、統合失調症や依存症などの精神障がいを持ちながら暮らす中で見出した生きづらさや体験(いわゆる“問題”や苦労、成功体験)を持ち寄って、それを研究テーマとして再構成し、背景にある事がらや経験、意味等を見極め、自分らしいユニークな発想で、仲間や関係者と一緒になってその人に合った“自分の助け方”や理解を見出していこうとする研究活動に他なりません。
  「当事者研究」では会場で選ばれた精神疾患の当事者の方がソーシャルワーカーの向谷地さんの質問を受け、とても分かり易く図解入りでこれまでの御自身のこと、また幻覚、幻聴の辛さなどを語っていきます。そして、仲間とユーモアたっぷりにワイワイ、ガヤガヤ楽しく語り合いながら、起きている“問題”の可能性や意味、目的を掘り下げて共有していきます。そしてさらに、今までの“自分の助け方”を評価して、それに変わる新しいユニークな“自分の助け方”を仲間と一緒に考案していくのです。
  このように、「当事者研究」が目指しているものは治癒や完全寛解ではありません。そのようにして病気を取り除くことではなく、病気を誰でも“あたり前”に与えられている「生きる苦悩」として捉え直し、仲間と共にこれとうまく付き合っていく方法を模索していくことが目指されているのです。
  こうした「浦河べてるの家」の当事者研究は、私たちの間でも応用できると私は思います。私たちはともすれば、自分にも友人にも、教会の中にも「問題」があってはいけないと思い込んではいないでしょうか。しかし、実際はそうしたところに問題があるのが当たり前なのです。自分自身振り返ってみましても、これまで何の悩みもない、何の問題もないという時はなかったことが分かります。それはここにいる皆さんも、またどこの教会でも同じことだと思うのです。自分にも、友人にも、教会の中にも、人生は至る所に問題だらけ。絶えず問題が付き纏います。その問題を無理に排除しようとするのでもなく、問題から逃げ出すのでもなく、皆で一緒に共有して引き受けいていく生き方がある。「浦河べてるの家」の当事者研究はそのことを私たちに教えてくれてはいないでしょうか。
  「当事者研究」に倣い、私たちも問題を抱えた時、皆でそれを共有し合っていきましょう。その問題の背景にある事柄、経験、意味などを皆で一緒に考えて、その問題にどのようにアプローチして苦しんできたか、明らかにしていくのです。そしてユーモアたっぷりに新しいアプローチの仕方を模索していくのです。そうして、問題を共に荷っていきましょう。
  ここに来れば悩みが無くなる。人生に何の問題も無くなる。そんなことはありえないけれども、何があっても「それで順調!」と言ってくださるイエス様と一緒に、またイエス様が招いてくれた仲間と一緒に、ゆっくり、のんびり、ユーモアたっぷりに問題を荷い合って旅を続けていく、そんな生き方を志していきたい。また、そのような共同体としてこの東京府中教会を建てていきたいと願います。
             祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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