2021年 7月 25日(日) 聖霊降臨節 第 10主日・礼拝説教
 

『障害』は社会が作る
 ヨハネによる福音書 9章 1〜12節 
北村 智史

  私が教団の「『障がい』を考える小委員会」、またNCCの「『障害者』と教会問題委員会」の委員になって数年が経ちました。今現在は新型コロナのため、活動が制限されていますが、それでもこの数年間、これら二つの委員会の方々と活動を共にさせていただく中で多くの学びを経験させていただいています。今日はその中でも、特に最近学ばされたことについて皆さんにご紹介できたらと考えています。
  さて、先程お読みいただきました聖書個所はヨハネによる福音書9:1〜12です。ここには、「生まれつき目の見えない人」が出てきます。イエス様の弟子たちがこの人を見かけた時、弟子たちはイエス様にこう尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
  この言葉から窺えるように、当時の社会では、病気や障がいは罪の結果起こるのだと考えられていたのです。「本人、あるいはその人の先祖が何らかの罪を犯し、神様から裁きを受けてそのようになっている」。当時の社会では、そう考えられていました。ですから、イエス様の時代、病人や障がい者はこうした心無い業論によって「罪人」として差別され、社会の片隅に追いやられていたのです。今日の聖書個所の後半には、この「生まれつき目の見えない人」が「物乞いをしていた」と記されていますが、ここからは差別され、社会の片隅に追いやられていた当時の障がい者の悲惨な状況が見て取れます。
  しかし、イエス様は今日の聖書個所で、当時病人や障がい者を社会の片隅に追いやっていた業論そのものを否定されました。弟子たちの問いに対し、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」、そのように言って、「生まれつき目の見えない人」を癒されたのです。そして、この人が社会復帰できるようにされました。
  これが今日のお話ですが、これについて、「イエス様はその人を癒さないで救ってほしかった」と仰る方がおられます。私も同意見です。「いわゆる『健常者』にならなければ救われない社会って何だろう?イエス様は『目の見えない人』を『見える人』に変えて救われたが、本当に変わらなければならなかったのは周りの人、社会の方だったのではないか?」そう思わされるのです。「症状は癒されなかったけれども、イエス様が周りの人の心を変えてくださって、この人が社会の中で生活していけるようになった、生きていけるようになった」、その方が救いがあるような気がするのは私だけでしょうか。
  今日の聖書個所から教えられること、それは「障がい」というものが決してその人個人の問題ではなく、社会の問題であるということです。もしもこの「目の見えない人」が社会に受け入れられて、必要な支援を与えられて、目が見えなくても何も困らずに生きていける仕組みが社会にあったなら、「目が見えない」という症状は生きていく上での「障害」にはならなかったでしょう。しかし、実際はこの「目の見えない人」はその症状のために「罪人」扱いされ、「害」扱いされて社会からはじき出され、何の支援もない状況に置かれて、物乞いをせざるを得ない状況に追いやられていた訳です。同じ症状を抱えていても、社会の仕組み、姿勢によってここまで大きな差が出てくる。それがその人にとって「障害」となるかどうかが決まってくる。こうしたことを思うにつけ、「障害」というものは社会が作るものだと思わされます。
  今日の聖書個所の中で、イエス様は「目の見えない人」をお救いになるためにこの人を癒されましたが、本当になさりたかったのは社会そのものを変えることだったと思うのです。私たちはそのイエス様の御心を汲み取って、自分たちが生きている社会を変えていかなければなりません。「障がい者」、「健常者」と言って両者を冷たく区別し、「障がい者」を「害」扱いする、そんな社会を変えていかなければならないのです。
  私がまだNCCの「『障害者』と教会問題委員会」に関わり始めたばかりの頃、ひょんなことから目の見えない人をある場所までお送りする機会がありまして、私の肩に手を置いていただきながら歩き、電車に乗ったり、バスに乗ったりして目的地までその方をお連れしたのですが、その時に私が「毎回こんなご苦労されて大変ですね」と申し上げましたら、「いやいや、北村さん。私の問題のように言われていますが、『障害』というものは私の中にあるのではなくて、むしろ社会の中にあるのですよ」と言われて、ハッとしたことがありました。誘導用ブロックから荷物をどけてくれたり、危ない時に声をかけてくれたり、「たとえ目が見えなくても、もっとこうしてくれたら、こういう配慮があったなら何も困らないのになあ」と思うことが多々あるそうです。そういう社会の中にある「障害」を無くしていく、そして「障がい者」、「健常者」と両者を冷たく分ける区別そのものが無くなっていく、そういう社会を作っていくことが教団、NCCの障がい者関連の委員会に加えられた自分の使命なのだとその時思わされました。
  このことに関連して、目黒区のホームページに興味深い記事が載っていました。「『障害』は社会が作るもの」という記事です。これは2011年11月25日付けの目黒区報に掲載された記事だそうですが、そこにはこんなことが書かれていました。
  「今、障害を考える視点と解釈が大きく変わりつつあります。
   かつては、身体障害などの障害をもつ人には、本人の障害ゆえにできないことがあるということが、その人の宿命のように解釈されていました。また、本人もそのことを諦めざるをえないような状況に立たされていました。しかし現在では、障害をもつ人が生き生きと生活できないのは、障害をもつ人個人の責任ではなく、社会に問題があるという考え方に変化しつつあります。つまり、施設などの整備や人的な支援など、社会に特別の配慮さえあれば、その人に障害があっても、生活をしていくのに大きな問題とはならないということです。
  このような考え方は、今年(2011年)8月に改正された障害者基本法にも取り入れられています。
  また、障害者の自立に対する考え方についても大きく変わってきています。
かつては、障害が重いと自立などはありえない、という考え方が社会の中で支配的でした。自らお金を稼ぎ、身の回りのことを自ら行う『経済的自立』や『身体的自立』が可能でなければ自立できない、という考え方です。しかし、障害が重くて『経済的自立』や『身体的自立』が難しくても、ヘルパーなどの制度を利用して、自分らしく生きることができる、自立することができる、という考え方に大きく転換してきました。
  北欧で生まれた、普遍的な平等を目指すノーマライゼーション思想も、当初は『正常化』と直訳され、健常者に合わせて正常な生活に近づけていくという発想でした。
  しかし、人権思想が高まる中で、ノーマライゼーション思想も『社会の中には必然的に障害者が存在する』『障害者を一般市民と区別するのではなく、障害をもった普通の一市民である』と解釈するように進歩してきました。無理に健常者と同じような状態を目指すのではなく、自らの障害を否定せず、ありのままの姿で生きていくことが可能になる社会が、ノーマライゼーション思想の理想とする社会です。
  人がともに幸せに生きていくためには、お互いの配慮が必要です。今後私たちは、社会がすべき配慮について、さまざまな面で考えていく必要があるのではないでしょうか。」
  考えさせられる記事です。この記事が書かれてからおよそ10年が経ちましたが、わたしたちの社会はどれほど変化してきたでしょうか。このことを思う時、まだまだ変わっていかなければならない現実が私たちの社会にたくさん存在していることに気付かされます。それは、教会という共同体社会においても例外ではありません。目の見えない人が何の障害もなく礼拝に参加できているでしょうか。耳の聞こえない人は?車いすの人は?このように考えていくと、次から次へと課題が浮き彫りになってきます。
  自らの教会のあり様を正し、社会の仕組みの中にある様々な障害を取り除いていくことにしっかりと貢献していきましょう。障がい者が障がい者であるが故の不便、社会の仕組みによってそのようになっている不便を一つひとつ解消し、最終的には「障がい者」という言葉も「健常者」という言葉も無くなって、ひとつの「人」という言葉になってしまうような、そんな社会を皆で一緒に作っていきたいと願います。

             祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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