2021年 8月 8日(日) 聖霊降臨節 第 12主日・礼拝説教
 

「一神教対多神教という構図」
 ヨシュア記 6章 20〜21節
  イザヤ書  2章 1〜5節 

北村 智史

  今から2か月くらい前のことだったでしょうか。東京同宗連の総会で講師として来てくださった方がこんな話をしておられました。その方は宗教の知識が非常に豊富で、講演の中でも宗教の中にある差別思想を指摘し、宗教は差別に加担してきたのではないかという問題提起をしておられたのですが、その彼女が「しかし、私はやはり宗教には興味がある」と言うのです。それで、キリスト教のカトリックで洗礼を受けようと決意なさったそうなのですが、そのことを自分の夫に話したら大いに反対されたとのことでした。夫曰く、「キリスト教なんて一神教ではないか。一神教なんてとんでもない。一神教が今の世界をめちゃくちゃにしているんだ」とのことです。
  こうしたお話を伺って私が素直に思わされたのは、「こんな風に感じていらっしゃるのは決してこのご主人だけでないのだろうな」ということです。日本の論壇ではこうした議論、また「一神教と多神教」を巡るメッセージが繰り返し現れてきました。特に9・11同時多発テロ事件以降、その傾向が強まって来ているように私には感じられます。
  たとえば、日本文化の先導的な紹介者として知られる梅原猛はこんな言葉を語っています。「私は、かつての文明の方向が多神教から一神教への方向であったように、今後の文明の方向は、一神教から多神教への方向であるべきだと思います。狭い地球のなかで諸民族が共存していくには、一神教より多神教のほうがはるかによいのです」。
こんな風に日本文化の紹介者が一神教より多神教を優位に位置づけるのは決して珍しいことではありません。その際、一神教は紛争・戦争や自然破壊の原因として批判され、他方、そのような問題の解決策として多神教やアニミズムの自然理解が紹介され、賞賛されます。一神教的な思考を捨て去り、多神教的な考え方に移行すれば、戦争や自然破壊の問題は解決するという単純かつ明快な論理ですが、そうした発言の中には、9・11を意識して憎悪や偏見を増長しかねないものになっているものも少なくありません。たとえば、『アメリカの正義病、イスラムの原理病―― 一神教の病理を読み解く』という著書を書いた岸田秀さんと小滝透さんはこんな言葉を語っています。
  「だから、世の中でいちばん迷惑というか害が大きいのは、一神教と一神教との喧嘩ですね。今のキリスト教国のアメリカとイスラム圏との争いというのは、人類の未来にとって非常に危惧すべきことではないかと思います。これはやはり一神教の病理で、はっきり言えば、一神教が人類の諸悪の根源なんで、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、一神教がすべて消滅すればいいんですけれどね(笑い)」。
  一見冗談めかしてお話しされていますが、この種類の感覚は大衆文化の中でかなり広く共有されているのではないでしょうか。長引く紛争や戦争の背後にある問題は複雑で、通常、その原因は政治や経済、価値の対立などを含む複合的なものです。しかし、その原因を宗教紛争へと還元することによって一気に見通しの良さを与えようとする誘惑が社会には溢れています。このように一神教と多神教を巡る議論は枚挙に暇がありませんが、それらをまとめるとだいたい次のようになるでしょう。
(一)ユダヤ教・キリスト教・イスラームは唯一の神を信じる宗教であるから、対立・衝突を避けることができない。
(二)戦争や自然破壊など、現代世界の問題は一神教(文明)に帰するところが多く、日本の多神教(文明)こそが一神教的思考の限界を乗り越え、問題解決に貢献すべきである。
(三)一神教は排他的・独善的・好戦的・自然破壊的であるのに対し、多神教は寛容・協調的・友好的・自然と共生的である。
  しかし、こうした議論は本当に正しいのでしょうか。一神教がこの世界から無くなったら、世界は良くなるのでしょうか。今日はこうしたことについて皆で一緒に考えていきたいと願っています。
  さて、そんな今日は聖書個所を2箇所取り上げさせていただきました。まずヨシュア記6:20〜21を見てみましょう。このヨシュア記という文書には、モーセの後を継いだヨシュアに率いられて、イスラエルの人々が約束の地カナンを征服していくくだりが記されています。イスラエルの人々のカナン入植。それはイスラエルの人々からすれば、神様が自分たちへの約束を果たしてくださった救いの出来事であり、神様への信仰を強められる出来事でした。しかし、見方を変えれば、それはイスラエルの人々による異民族、異教徒虐殺の歴史でもあったと言うこともできるのです。
  今日の聖書箇所、ヨシュア記6:20〜21はその中でも、イスラエルの人々がカナン征服の第一歩としてエリコという町を攻略した時のことが記されていますが、神様の奇跡により城内になだれ込み、町を占領したイスラエルの人々は、ラハブとその家族以外のすべての老若男女、さらに家畜さえも一頭残らず殺してしまいます。私がこれを初めて読んだ時、「何て酷いことをするのだろう」、「これが果たして正義か」と、異民族、異教徒に対する殺人を神様のもとでの聖戦として描くような思想に怖いものを感じました。ヨシュア記では、その後もカナンの町々がイスラエルの人々によって徹底的に滅ぼし尽くされる様子が描かれていきます。
  こうした聖書の記述、また十字軍などの歴史的な出来事を根拠にして、キリスト教、また「一神教は排他的・独善的・好戦的・自然破壊的である」ということが言われるのでしょう。
  しかし、ここで振り返ってみたいのが今日のもう一つの聖書箇所、イザヤ書2:1〜5です。ここには終わりの日に、すべての国々が神様のもと、武器を捨て去り、平和の内に共に生きる様子が描かれています。信仰者が目指す平和はこのようなものであるというイメージが示されているのです。その他にも、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と仰られたイエス様の言葉など、聖書には信仰者を平和へと駆り立てる言葉が随所に出てきます。こうした御言葉を原動力として平和の運動に邁進するキリスト者が多くいることを、私たちは忘れてはなりません。「キリスト者九条の会」、「平和を実現するキリスト者ネット」然り、『信徒の友』8月号に掲載されていた中村哲さんの働き、日本キリスト教海外医療協力会の働きなどの数々の働き然り、安保法制に反対するキリスト者のデモ然り。キリスト教が争いや暴力を生み出してきただけでなく、愛の宗教として、また神様に仕える宗教として平和に貢献してきたことも紛れもない確かな事実でしょう。
  こうしたことを思いますと、キリスト教を初め一神教が「排他的・独善的・好戦的・自然破壊的である」と決めつける見方はごく一面的な見方でしかないことが良く分かります。キリスト教という宗教には二面性があって、「排他的・独善的・好戦的・自然破壊的」な要素と、「寛容・協調的・友好的・自然と共生的」な要素と、相反する二つの要素を同時に併せ持っているというのが実際の姿でしょう。私はそれは、一神教と多神教を問わず、キリスト教以外の宗教でも同じだと思うのです。
  よく「多神教は寛容・協調的・友好的・自然と共生的である。だから、これからの時代は一神教よりも多神教だ。排他的・独善的・好戦的・自然破壊的な一神教が引き起こす問題を多神教の思想が解決していくのだ」ということが言われるわけですが、はたして手放しにそのように言うことができるものでしょうか。「寛容な多神教」と言う訳ですが、その寛容なはずの多神教社会・日本で凄惨なキリシタン迫害が行われたのは歴史的な事実です。また、多神教の代表格とされる神道の中には、近代において、国内外で他宗教に対し排他的な態度を取った者が少なくありませんでした。大東亜共栄圏における神社参拝の強要を、私たちはどのように考えたらよいのでしょう。
  真宗大谷派の僧侶・瓜生崇さんは自身のコラムの中で、「日本の神道や仏教とはそんなに寛容なものだっただろうか」と問うて、次のように述べておられます。
「日本の仏教教団は歴史の中で常に様々な権力については離れ、必要とあれば自分たちを脅かす勢力を徹底的に潰してきた歴史があります。興福寺や延暦寺の僧兵が勢力争いの抗争を頻繁に繰り返してきた歴史は有名ですし、私の属する浄土真宗もその渦中で大きな弾圧を受け、大規模な戦争にも発展しています。
   その浄土真宗も大教団となった後には権力と結びつき他の宗教の弾圧に加担しています。寺檀制度はそもそもキリスト教などの異端勢力の締め出しが大きな目的の一つでした。近代になってからは廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、多くの仏閣はバーミヤンの大仏のように破壊され、仏教諸派は国家に服従して戦争協力の道を突き進みます。そして神道は国家主義と結びつき学校や公共施設では神棚への礼拝が強要され、一方大本教などの新宗教を弾圧するようになります。
   つい最近までこうした抗争と弾圧の歴史を繰り返してきた日本の仏教や神道を、いまさらになって『1500年以上かけて洗練されてきた』寛容性のスタイルと言われても、歴史を多少でも知る人なら一体何を言っているのか訳がわからないでしょう。」
  説得力のある言葉です。こうした瓜生さんの言葉を前に思わされるのは、「一神教対多神教」という構図ですね、「排他的な一神教」、「寛容な多神教」と物事を単純化して並べ、多神教の方が優れているとする考え方、論理が単なる幻想に過ぎないということです。実際は一神教においても多神教においても、「排他的・独善的・好戦的・自然破壊的」な要素と、「寛容・協調的・友好的・自然と共生的」な要素と、相反する二つの要素が含まれているのであり、それらによって宗教が平和に貢献した時もあれば、争いや暴力を生み出してきたこともあったというのが歴史的な事実でしょう。
  であるならば、私たちがすべきことは、一方的に一神教を裁き、多神教への回帰を促すことではなく、それぞれの宗教において、どこに暴力的な要素があり、どうした時に宗教が「排他的・独善的・好戦的・自然破壊的」に機能してしまうのか、またどこに平和的な要素があり、どうした時に宗教が「寛容・協調的・友好的・自然と共生的」に機能するのかを明らかにしていく、そして宗教をまことに人類の、また地球の幸福に資するものとしていくことだと思うのです。
  願わくは、このコロナの中においても宗教の研究や宗教間の対話が進んでいきますように。宗教の学びを深め合って、皆で一緒に宗教という人間の営みを神様の御心に沿うものへと変えていきましょう。

 お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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