2021年 8月 15日(日) 聖霊降臨節 第 13主日・礼拝説教
 

「言葉のすり替え」
 テモテへの手紙二 4章 1〜5 
北村 智史

 今日は何の日か、皆さんご存じでしょうか。今日は敗戦記念日です。このように言うと、皆さんの中には「えっ、終戦記念日じゃないの?」と思われる方もおられるかもしれません。おそらく「終戦記念日」という言い方の方が世間一般で用いられている言い方なのだろうと思いますが、私はあえて8月15日を「敗戦記念日」と言うようにしています。「敗戦」を「終戦」と言い換えて、第二次世界大戦の敗北を認めずにアジアの隣国に強気で向かい、アメリカに隷属し続けるこれまでの戦後日本のあり方に疑問を感じているからです。敗戦をしっかりと受け止めてそこにある加害者性を自覚していかない限り、アジアの和解と平和は成し遂げられないだろう。そうした問題提起の思いを込めて、私は今日のこの日を「敗戦記念日」と呼ぶようにしているのです。
  このように同じ日であっても、「敗戦」と呼ぶか「終戦」と呼ぶかでその意味合いは大きく変わってくるから言葉というのは不思議です。そして、今日はこの不思議に関わるお話をしていきたいと考えています。
  さて、皆さんもご存じのように、先週の8日まで私たちの国ではオリンピックが開催されていました。25日からはまたパラリンピックが始まっていきます。しかし、この東京オリンピック・パラリンピックに関しては、そもそも本当に開催するのかということで大きな議論が沸き起こっていました。新型コロナが猛威を奮う中で、感染拡大を懸念する観点、人々の大切な命を守る観点から、多くの人々が署名を集めて中止を求めたのです。けれども、いつの間にかオリンピック・パラリンピックを開催する前提で話が進められ、結局開催が強行されてしまった。今回のオリンピック・パラリンピックに関しては、そんな感じが否めません。
  そんな中、ものすごく頭にきた出来事がありました。「Hanada」という雑誌に掲載された、ジャーナリストの櫻井よしこさんと安倍前首相の対談の記事です。この中で安倍前首相は、朝日新聞や共産党を例に挙げながら、「歴史認識などにおいても一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の東京五輪開催に強く反対している」と述べました。とんでもない暴言です。
  そもそも今年の夏のオリンピック・パラリンピック開催に反対する声が根強かったのは、新型コロナが依然として猛威を奮っているこの状況で強行すれば感染再拡大や医療崩壊のリスクがあったからでした。決して「愛国」か「反日」かというイデオロギー的な対立ではなかったのです。実際、今回のオリンピック・パラリンピックの開催に反対した人々を、先の戦争について日本の加害責任を問う、そのような歴史認識を持った人々で一括りにすることは不可能でしょう。
  にもかかわらず、安倍前首相は、オリンピック・パラリンピックの開催に関わる議論を「愛国」か「反日」かというイデオロギー的な対立にすり替えて、世論調査で中止や延期を求めていた6〜7割の人も、要するに自分の意見に反対する者は皆「反日」的なんだと言わんばかりの乱暴な物言いです。安倍前首相が大好きな天皇も今回のオリンピック・パラリンピックについては宮内庁長官が懸念を代弁していましたが、その天皇も「反日」的と言うのでしょうか。
  そもそも、「愛国」、「反日」という言葉の定義ですね。日本の戦争責任を認めない自分の歴史認識、また自分に従うあり方を「愛国」とし、戦争責任を誠実に問う歴史認識、また自分とは異なる意見を述べる者を敵視して「反日」と決めつけるネトウヨ的な思考に本当に嫌気が差します。
  私からすれば、日本の戦争責任を誠実に問う歴史認識を持った人こそが、まことにこの国をアジアの平和へと導かんとする「愛国」者だと思いますし、戦争責任を認めない人こそこの国を滅びへと導く「反日」だと思うのですが、そもそもオリンピック・パラリンピック開催の議論はそういう「愛国」か「反日」かというイデオロギー的な問題では決してありません。論点をすり替え、言葉をすり替え、本当に悪しき政治家というものは、自分に都合の良いように言葉というものを捻じ曲げて使ってくることが良く分かります。
  その他にも、記事ではオリンピック・パラリンピック開催の意義について、安倍前首相が日本人のアイデンティティーとか、誇りを形成とか、国粋主義的な話ばかりする様子が掲載されていました。安倍前首相自身が招致時に「復興五輪」と訴えていたのは、やはり口からでまかせだったのでしょう。安保法制のように日本を戦争のできる国に変えてしまう自身の政治も、「積極的平和主義」と言葉をすり替えるのですから、この人は本当に本音を隠し、表向きは都合良く美辞麗句を並べ立てながらこの国を右翼的な体制へと持って行こうとする、そんな傾向を持っているように私には感じられます。
  そんな人がゴロゴロいるというのが、今の日本の政治の現実でしょう。そのような中にあって、私は言葉のすり替えに惑わされない目、物事の本質を鋭く見抜く目を持つことが、神様の御言葉を宣べ伝えていく使命を果たしていく上でとても大切なことだと思うのです。
  今日の聖書個所にはこのように記されています。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」。
  この御言葉に従い、イエス・キリストの御国をこの地に成し遂げるという観点から、必要な神様の御言葉を社会に対して語っていきたいと願います。今は「だれも健全な教えを聞こうとしない時」に加えて、悪しき政治家たちが自分たちに都合よく巧みに言葉をすり替えたりして操って人々を惑わしている、そんな時代ですけれども、神様の御心を追い求める観点から物事の本質を鋭く見抜いていきましょう。そして、「苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み」、御言葉を宣べ伝えていく、そのようにして神様の御旨をこの地に成していくという自分の務めをしっかりと果していきたいと願います。
        祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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