2021年 8月 22日(日) 聖霊降臨節 第 14主日・礼拝説教
 

「武器を置こう」
 ミカ書 4章 3節  
北村 智史

  新約聖書の中にはエフェソの信徒への手紙という文書がありまして、その2:14〜18には、イエス・キリストが私たちに与えてくださった平和について教えてくれる御言葉が記されています。この御言葉の内容を簡単に要約すると、大体次のようになるでしょう。イエス・キリストが来られる以前は、ユダヤ人たちは神様に律法を授けられた自分たちしか救われないとして、律法を知らない、それゆえこれを守ることができない異邦人たちを「救われない人々」として差別していた。異邦人もそんなユダヤ人を憎んでいた。このようにして、ユダヤ人と異邦人との間には「敵意という隔ての壁」が存在していた。しかし、イエス・キリストは今から2000年前に、御自分の十字架によって、ユダヤ人のみならず異邦人も含めたすべての人々の罪を無償で贖ってお救いになった。これによって、ユダヤ人と異邦人との間にあった「敵意という隔ての壁」は取り壊され、両者は同じ神様に救われた仲間として和解することが可能になった。イエス・キリストが私たちに与えてくださった平和とは、このようにすべての者を御自分の愛によって一つに結び付けてくださる平和に他ならない。
  しかしながら、今の世界を振り返ってみれば、イエス・キリストがこのように私たちに平和を与えてくださったにもかかわらず、私たち人間の罪によって平和とはほど遠い悲惨な現実がそこかしこに生み出されている、また生み出されつつあることに嫌が上でも気づかされます。このような状況の中にあって、本日は改めて神様のもとで平和を実現していくことについて、深く思いを馳せたいと願います。
  さて、そんな今日は聖書の中からミカ書4:3を取り上げさせていただきました。このミカ書という文書は、1:1に「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェトの人ミカに臨んだ主の言葉。それは、彼がサマリアとエルサレムについて幻に見たものである」と記されていることから窺えるように、B.C.8世紀後半に南ユダ王国で活動した預言者ミカの預言を収めたものとされています。B.C.8世紀後半に、預言者ミカはサマリアとこれを首都とする北イスラエル王国が偶像崇拝の罪のゆえに神様の裁きによって滅びること、またエルサレムとこれを首都とする南ユダ王国も不正義のゆえに神様の裁きを逃れられないことを人々に告げ知らせました。しかし、現在では、ミカ書の中で実際にミカ自身の言葉であるのは1〜3章までで、4章以下はバビロン捕囚の時代以後に成立し、付け加えられたものであると考えられています。かつてミカが預言したことが、B.C.587年のバビロニア軍によるエルサレム破壊と南ユダ王国の滅亡によってついに成就したとイスラエルの信仰共同体 (=捕囚民) は受け止めたわけですが、やがて彼らの中からは、ミカによる破滅の預言が神様の最後の言葉ではなくて、それを超えた救いが神様によって備えられていることを信じる信仰が生まれていきました。こうして、神様の裁きを告げる実際のミカの預言の言葉1〜3章に、救いの約束を告げる4章以下の預言の言葉が付け加えられて、ミカ書が成立したのです。このようにして成立したミカ書全体を概観いたしますと、私たちはこの書が、神様の救いの計画 ――すなわち、義なる神様が人間の罪を裁いて滅ぼし尽くすけれども、しかし、そこですべてが終わってしまうのではなくて、打ち砕かれて苦難の中にある民を神様が再び救いへと導いてくださるという、この神様の救いの計画―― の全体像をはっきりと指し示すものになっていることが分かるでしょう。
  中でも、ミカ書4:1〜8は、救いの成る終わりの日に再建される新しいエルサレム――「神の国」と言っていいと思いますが、この「神の国」―― での平和の様子が描かれた場面です。神様が直接人々を統治され、地上の争いに終止符を打たれる。これまでイスラエルを脅かして来た諸国民はもはや敵ではなく、同行者として共に主がおられる神殿の山を巡礼し、主の教えに従って歩むようになる。全世界は武装を解除し、これを平和の道具に作り変えて、二度と争いを起こさない。すべての人が平和を享受し、誰一人不安や脅威に怯えることなく生活することができるようになる。戦争によって散らされた民も、再び神様のもとに呼び集められる。
  終わりの日に神様によって成し遂げられる「神の国」での平和の様子を描いたこうしたミカ書の言葉の中で、今の私たちにとって最も大きな示唆を与えてくれる言葉が、本日聖書個所として取り上げさせていただきました4:3の言葉、「主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。/彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」という言葉だと私は思います。なぜなら、この言葉は、神様の平和は私たちが武器を取る先にあるのではなくて、私たちが武器を手放す先にあるのだという真理に私たちの目を開いてくれるからです。
  では、この真理に従って武器を手放していくために、私たちはどのようにすればいいのでしょうか。その第一歩は、武器をたくさん持ち、戦争もできるようにして相手を威嚇すれば、攻撃してくる人がいなくなって平和になるのだ、武器を使って相手をやっつけてしまえば、敵がいなくなって平和になるのだといったように、私たちの世界に根強く、幅広く蔓延している、武器によって平和が成し遂げられるのだという考え方の幻想を私たちが打ち破ることに他なりません。
  ここで、私たち人間の歴史を振り返ってみて、私たちはそこから武器によって平和が成し遂げられた例を挙げることができるでしょうか。このことを思う時、私はこれまで武器によって生み出されてきたものが決して平和ではなく、むしろ支配であり、また次の争いであったという事実を考えさせられます。と、同時に、武器によって延々と生み出され続けてきた争い、その中で引き起こされた様々な悲劇について考えさせられるのです。
  このことに関連して、私は今から7年ほど前でしたでしょうか、「東京同宗連」の総会の講演で聞いた、元ひめゆり学徒隊“いのちの語り部”の与那覇百子さんの沖縄戦のお話、平和についてのメッセージを思い出します。
  御存じのように、太平洋戦争末期、沖縄では本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨て石作戦」として、すさまじい数の銃弾や砲弾が飛び交ったことから「鉄の暴風」と形容されるほど激しい地上戦が繰り広げられました。そして、この戦闘によって、日本軍、アメリカ軍、及び民間人を合わせておよそ20万人もの尊い命が奪われたのです。与那覇さんは、「あの悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない。平和の尊さを知ってもらいたい」という思いから、講演の中で、自分がひめゆり学徒隊の一員として経験した様々な事柄を私たちに熱心に話してくださいました。自分のいた壕が艦砲射撃の直撃を受けて、自分はたまたま外に出ていたために助かったけれども、中にいた友だちや兵隊たちは皆、胴体だけの姿であったり、頭が割れていたり、お腹が裂けていたりと、本当に無残な姿で亡くなってしまったというお話。突然「今後はすべて各自の判断で、責任をもって行動しなさい」とひめゆり隊の解散命令が出されて、行くあてもなく銃弾、砲弾の飛び交う戦線の中を南へと逃げていくことになり、その中で、目の前で友だちが撃たれて亡くなっていったお話。ある時、お父さんが「自分が入る壕がないので、百子の壕に入れてもらえないだろうか」と、自分が動員された陸軍病院の壕にやって来たけれども、軍の方から「民間人は絶対に入れるな」と厳しく言われていたことから泣く泣く断って、お父さんは肩を落として帰っていった、そして、結局それが父との最後のお別れになってしまったというお話。解散命令が出て陸軍病院の壕から逃げていかなければならなくなった時に、やむなく動けなくなった仲間を置き去りにしていった、しかし、戦争が終わった後、死に別れたと思っていたその仲間と偶然再会する機会があって、その時に、「なんであの時、私を見捨てたの!本当にひどいわ!」と問い詰められて、「ごめんなさい」と謝りながら本当に胸が痛んだというお話等々、与那覇さんのお話を伺うたびに、私は本当に胸が詰まる思いでした。中でも、与那覇さんの、「戦争が始まるまでは両親がいて、祖母がいて、妹も弟もいて、皆和気あいあいと一緒に夕食を食べ、朝ごはんを食べて家から出ていくという生活をしていた。しかし、戦争が始まったら、てんでばらばらになって、自分以外の家族は皆死んでしまった。どこで死んだのかも分からない。戦争というものは本当に家庭を崩壊させるのだ」という言葉と、「平和の中では考えられないことだが、沖縄戦では人が紙くずのように殺されていった。人間を粗末にするのが戦争なのだ。こうした戦争を絶対にしないで欲しい」という言葉が、私の印象に残っています。
  こうした与那覇さんの講演を聞きまして、私は、「軍隊は国民を守る、人を守るというようなことを今日本のある政治家が言っているけれども、沖縄戦では民間人も巻き込んで大量の人が殺されたわけで、ちっとも軍隊が人を守らなかったじゃないか。結局軍隊というのは、国家という入れ物を守るだけで、肝心のその中身、実態である人間の命を犠牲にする、そうして平和を犠牲にするのだ。いくら抑止力のためだ、平和のためだと言ったところで、銃や爆弾、軍隊といったような武器が存在する所には、これを使って行われるこのような悲劇が避け難く付き纏ってくるのだ」ということを素直に思わされた次第です。
  何度でも声を大にして言いますが、武器によって私たちは平和を成し遂げることはできません。本日の聖書個所の御言葉が私たちに示してくれているように、神様は私たちがすべての武器を廃棄することを通して御自身の平和を成し遂げようとしておられるのです。ユルゲン・モルトマンという神学者は、その著書の中で、「歴史の中には、神の国と義に公然と反対する状況があります。その歴史的状況に反対するのは、私たちによるに違いありません。しかしまた、神の国にふさわしい状況もあります。それらは、私たちによって進められ、できるなら、確立されなければなりません。その時、現在の中に来るべき、み国の写し絵が生まれ、神の日に成ることを、今日、すでに先取りするのです」と語りましたが、神の国を先取りするどころか、これとは正反対の方向に向かっていこうとしている今の日本のただ中、世界のただ中にあって、武力で物事を解決しようとする人間の罪を捨て、世界中の国が軍縮を進めてすべての武器を廃棄するのが平和への唯一の道であり、神様の御心に適うことであることを、教会の使命として精一杯宣べ伝えていきたいと願います。
  祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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