2021年 8月 29日(日) 聖霊降臨節 第 15主日・礼拝説教
 

「カルトの違い」
 ヨハネによる福音書 8章 31〜32節  
北村 智史

  先月の26日〜27日にかけて、東日本ユースキャンプが行われました。このキャンプは、もともとは高校生を対象とした献身キャンプで、将来、同志社大学の神学部に進み、牧師を志す人を生み出すためのがちがちのキャンプでした。けれども、現在では、将来そのように牧師にならなくても、洗礼を受けて、それぞれ神様から与えられた職業の職場で神様の御招きに応えていけば、それは立派な献身だろうという考え方から、もう少し目標が広く設定されています。牧師への献身者を生み出すのはもちろんのことですが、キャンプに参加する高校生たちが信仰を養われ、今繋がっている教会で洗礼を受けてくれる、そうして神様の温かな眼差しの下で自分の夢に向かって羽ばたいていってくれることも大きな目標にしているのです。
  毎年、東日本ユースキャンプは3泊4日のプログラムで行われるのですが、今年は新型コロナのために宿泊はせず、2日間のプログラムで、一日目は会場を群馬県の前橋教会、東京の霊南坂教会の2箇所に分けて日帰りのデイキャンプを行いました。2日目はzoomでリモートキャンプを行い、同志社大学神学部の教授に神学部の紹介をしていただきました。
今年のキャンプのテーマは「新たな一歩」です。今は新型コロナが蔓延する中で多くの人々が苦しみを経験しているけれども、この苦しみも永遠ではない。私たちはこの苦しみのトンネルの出口に向けて、またコロナ後の世界に向けて着実に歩みを進めている。私たちはその新型コロナ後の世界を、前の世界よりもより良い世界へとアップデートしていかなければならない。そのための新たな一歩を今日踏み出そう。心の中にある悩みや葛藤、苦しみなどを吐き出しながら、希望を持って。そうした思いを込めてこのテーマを設定しました。今回のキャンプではこのテーマにふさわしく、二日間、お友達、スタッフ、講師の先生方と、ソーシャルディスタンスを取ってもコミュニケーションは密にしながら、思いを共有し、大きな希望を吸い込んで元の生活に戻って行けるような、そうしてこれからの人生を歩んで行けるような楽しいキャンプとなったように感じています。
  そのキャンプの中で、キャンパーのある高校生からこんな質問がありました。「キリスト教とカルト宗教との違いは何ですか?」この質問をきっかけに、スタッフの間で「何だろう?こういうことかな?ああいうことかな?」といろいろ議論が盛り上がったんですけれども、その高校生の質問に答えながら、しかし「これは一度教会の説教で取り上げても良い事柄だなあ」と思わされました。なので、今日は私たちが信じる宗教とカルト宗教の違いについて、皆で考える一時を持ちたいと願っています。
  さて、そんな今日は聖書の中からヨハネによる福音書8:31〜32を取り上げさせていただきました。この中でイエス様はこのように言われています。「真理はあなたたちを自由にする」と。私はイエス様のこの言葉が、私たちが信じるキリスト教とカルト宗教との違いについて考える上でのキーワードとなるように思うのです。
  カルト宗教についてよく言われるのは、「答えが決まっている」ということです。「これはこういうことですよ。あれはああいうことですよ。この教理を信じれば幸せになりますよ。信じなければ不幸になりますよ。財産を寄付すれば救われますよ。しなければ滅びますよ。」こんな風に逐一答えが「あれか、これか」で決まっているのがカルト宗教の特徴だと言えるでしょう。
  実際、いつだったかNHKの『逆転人生』という番組で、あるキリスト教を自称するカルト宗教の二世として生まれ、人生を滅茶苦茶にされた、そしてそこから立ち直った坂根真美さんという方の特集が放映されていましたが、それを見ますと、このカルト宗教の特徴がよく分かります。
  坂根さんが所属していたこのカルト宗教団体を仮にA教団と呼んでおきましょう。母親がこのA教団の熱心な信者だったために、幼い頃に父親や姉も含めて家族ぐるみで入信し、11歳でその洗礼を受けたという坂根さん。彼女は物心がついた時から友達付き合いや世間一般の行事に参加することを許されず、常にそのA教団の信仰と母の言葉に縛られ続けたそうです。逆らうことや抵抗することがあると、体罰までもが与えられてしまう生活……。母の強い信仰心に翻弄された父親も、いつの間にか家庭から去っていきました。家庭生活に始まり、学校生活や就職など、制限や制約を受け続ける毎日に精神的な負担を感じましたが、それでもやはり疑問を押し殺しながら信仰を続ける選択をすることしかできなかったと坂根さんは言います。
  そんな坂根さんは、21歳の時に同じ教団の信者と結婚しました。結婚相手については、そのように同じ教団の信者しか許されていなかったのです。しかし、坂根さんは、この結婚相手の夫からDVを受けたことによりわずか4年で離婚という結果になります。すると、A教団は「神様に誓ったわけだから離婚など認められない。それは法律上の離婚で信仰上では離婚をしていないのだ」と主張。宗教上のタブーを犯した坂根さんは周囲から「反逆者」扱いされるようになりました。
  そんな中、2度目の結婚という幸せが巡ってきたのですが、離婚を認めないA教団にとって再婚はタブー中のタブー。坂根さんは「重婚」をしたとしてA教団から「排斥(追放)」という処分を受けることになってしまいました。周囲はおろか、坂根さんの母親や姉にも関わりを断つことが命じられ、家族に言葉をかけることも連絡することもできない状況を作られてしまいます。家族と引き裂かれ、孤立した坂根さんはさらに、再婚した夫からも、再びDVを受けてしまい、2度目の離婚をすることになってしまいました。
  DV、2度の離婚、自殺未遂、家族との断絶。坂根さんはもうボロボロでした。それでも洗脳が解けず一人で集会に足を運び続けて、A教団から許しが得られる日を待ち続けたと言います。しかし、ストレスでアトピー性皮膚炎を発症し、さらに極度の体重減少でとうとう入院する事態になってしまいました。しかし、このことが坂根さんの人生の大きな転機となります。
入院と治療を受ける中で、医師や医療従事者の方と出会い、坂根さんはそれまで「外の人」だった人たちとの出会いを見つけ出していきました。医師は坂根さんに、「なにごとも、ほどほどに」という言葉をかけました。「いいこと」と「わるいこと」の2つしか答えが見いだせないという坂根さんの心を見抜いたのです。この時もまだ信仰から離れることができなかった坂根さんでしたが、退院後、A教団の集会ではなく入院していた時の仲間との「飲み会」に参加することを選択します。様々な価値観の人と触れ、その出会いと言葉が、徐々に「自分の大事な哲学」となり行動となって表れるようになっていきました。そして遂には、それまで自分を縛り続けてきた信仰と決別し、自分の道を歩み始めるまでになったのです。
  33歳で初めて外の世界で働き始めた坂根さんは、パワハラやセクハラという現実にも向き合うことになり苦しみます。このことで母が信仰に救いを求めた気持ちを理解し、自らの両親やそれまでの人生を肯定することができるようになったと言います。今では坂根さんは作家となり、自身の体験を著書として出版。ブログも発信し、自分と同じようにカルト宗教に洗脳され、苦しむ人々の支援活動を行っておられます。
  こうした坂根さんの特集を見て、やはり「あれかこれか」の教義を押し付けて、徹底的に自由を奪っていくのがカルト宗教のやり方と言いますか、特徴なんだなと思わされました。「外の世界は悪、それと交わるのも悪、外の世界の人と結婚するなど以ての外、離婚は悪、再婚は悪、宗教上のタブーを犯した人間は悪魔、反逆者、これと関わるのも罪、徹底的に無視しなければならない。教団は善、教団の言うことには絶対服従。そうすれば救われる。反対に反逆する人間は滅びに至る悪魔であり、皆で徹底的に攻撃しなければならない」。こんな風にカルト宗教ではあらゆる事柄に対して「あれかこれか」で善悪、答えが決まっていて、本人の主体性を徹底的に奪い、その教団の教えに絶対服従させようとします。
  岩波の『キリスト教事典』では、「カルト」の項目でカルトの定義が為されていまして、それは「個人の自由と尊厳を侵害し、社会的に重大な弊害をもたらしている」集団だとされています。また、日本脱カルト協会の図書では、「破壊的」という言葉を頭につけて、「破壊的カルトとは、代表者または特定の主義主張に絶対的に服従させるべく、メンバーないしメンバー候補者の思考能力を停止、あるいは著しく減退させて、目的のためには違法行為も辞さない集団」であると定義されています。いずれにしても、本人の主体性や自由を徹底的に奪い、人権侵害や社会悪を行う集団がカルトだと見て間違いないでしょう。
  今日の聖書個所の中でイエス様は言いました。「真理はあなたたちを自由にする」と。本当にそこに真理が含まれている宗教は人間を自由にするはずです。神様のもとで、まことに主体的に生きることを可能にしてくれるはずです。
  それは、ユダヤ教やイスラームといった戒律の多い宗教でもそうでしょう。こうした宗教の戒律は、決して信者の主体性や自由を奪っているのではありません。そうではなく、信者たちは自分の自由な意志と決断でそういう生き方を、神様の御心に適う生き方をしたいと願って選び取っているのです。ユダヤ教やイスラームといった宗教では、そうした生き方を通して、信者たちは、あらゆる出来事に対して神様の御心に適うこととは何かということを主体的に、自由に判断できるような人間として養われていくはずです。
  いずれにしろ、その宗教が私たちを自由にしてくれるかどうか、絶対者のもとで、まことに主体的に生きることを可能にしてくれるかどうかが、カルトときちんとした宗教を見極める上でのポイントとなってくることでしょう。少なくとも私たちが信じている日本キリスト教団という教派のキリスト教はそういう宗教です。今はキリスト教を自称したり、仏教を自称したりするカルトも多い世の中ですが、何か宗教を持とうとしている人にはぜひこのポイントをしっかりと見極めて自分の属する宗教教団を判断して欲しいと思いますし、私たちもこうした点がカルトと違うということを、声高に社会に対して訴えていきたいと願います。カルトとの線引きを明確にして、改めて皆で一緒に宣教に励んでいきましょう。
  お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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