2021年 9月 19日(日) 聖霊降臨節 第 18主日・礼拝説教
 

「真理は寒梅のごとし」
 マタイによる福音書 5章 17〜20節  
北村 智史

  今日は敬老感謝礼拝の日です。毎年、この日は75歳以上の方々の、そのご長寿をお祝いしています。そして、何よりも75歳以上の方々のこれまでの人生を守り、導いてくださった神様に感謝を捧げる、そんな礼拝を神様にお捧げするのです。今日の礼拝では、これからも神様が今日祝福を受けられる方々と共にいてくださいますように、そして、私たち、これからも益々一つの家族として歩んでいけるようにお祈りをしたいと思います。それだけではありません。今日はこれまで長く人生を歩んでこられた先輩方から、生き方について、また信仰について学ぶ一時を持ちたいと願っています。特に、今日は子ども向けのお話をいたしますので、今日の礼拝が、子どもたちが人生の先輩方から何か大切なことを学ぶ時間になればと願っています。そして、今日のお話も、75歳以上の方々に比べればまだまだ若輩ですが、それでも40歳という節目を迎えた私からの子どもたちに対する一つのアドバイスになればと願っています。
  さて、そんな今日は、聖書の中からマタイによる福音書5:17〜20を取り上げさせていただきました。この中で、イエス様はこう語っておられます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と。
律法っていうのは、神様から与えられた掟のことです。イエス様の時代、ユダヤ人たちは律法っていう神様の掟を一言一句、とても大切に守っていたんですね。でも、それが行き過ぎて、イエス様の時代には、たとえば「罪人と交わってはいけないよ」と律法に書いてあるから、このように「罪人」とレッテルを張られてしまった人々が社会から締め出されてしまったり、あるいは「安息日」っていう、「神様から仕事をしないで休みなさい。そうして神様を礼拝しなさい」って言われた日があるんだけれども、その日には困っている人を助けたり、病気の人やけが人を治療したりすることも禁止されたりするような、そんなおかしなこともたくさん起こっていました。
  このように律法を文字通りに守ることにこだわるあまり、おかしなことになってしまうことを「律法主義」と言います。そんな律法主義がはびこる中、イエス様は安息日に人を癒されたり、「交わってはいけないよ」と言われていた人々と一緒に食事をしたりして、しょっちゅう律法学者やファリサイ派と呼ばれる人々、すなわち律法を厳しく、文字通りに守っていた人々とぶつかったのです。
  でも、それは決して律法を否定したというわけではありませんでした。今日の聖書個所の中でイエス様が、「自分は律法をなくすために来たんじゃないよ。そうではなく完成させるために来たんだよ」と仰っている通りです。聖書の別の個所で、イエス様は「『神様を愛しなさい』という掟と『隣人を自分のように愛しなさい』という掟、この二つの掟が律法の中で最も重要な掟である。律法全体はこの二つの掟に基づいている」と述べておられますが、実にイエス様は、「神様への愛」と「隣人愛」、この二つからすべての律法を再解釈しなおす新しい律法へのアプローチを生み出されたのです。イエス様のこのアプローチは、律法主義の陰で苦しむ人々がいる現実を乗り越える、そして律法を完成させる、そんな斬新なものでした。
  古い律法の解釈に留まらず、人々を救いに導く新しい律法の解釈を生み出されたイエス様。そのイエス様のことを考えていたら、一つの詩が頭の中に浮かんできました。同志社大学の祖・新島襄が作ったこんな漢詩です。「真理は寒梅の似(ごとし) 敢(あえ)て風雪を侵して開く」。真理は寒さの中、風や雪に負けないで、それらを切り開いて花を開かせる梅のようだという意味の詩です。真理というものは未知の領域、あるいは逆境を切り開いてこそなんぼのものだ。真理を求める者として、旧態依然の思想・考え方に留まらず、あえて新しい未知の領域を切り開いていきなさい。そのような思いを込めて、新島は教え子にこの詩を送ったのでしょう。
  ここでイエス様に話を戻せば、イエス様もまた梅の花のように、「敢(あえ)て風雪を侵して」真理の花を開かせる才能の持ち主でした。イエス様に従う者として、私たちもまたそのような才能を育んでいきたいと願います。
  このことに関連することですが、いつだったでしょうか、私が電車に乗っていた時に、試験対策だと思うのですが、二人の中学生くらいの学生が歴史の問題を出し合っていたのに出くわしたことがあります。何となく、聞くでもなしに聞いていたのですが、大学受験でもそんなマニアックな問題は出ないのではないかと思うような難問を二人で出し合っていました。その時に、「ああ、今の学生はここまでマニアックな知識を詰め込まないといけないんだなあ」と、今の時代の詰め込み教育の一端を見たような思いがして、驚かされました。
  確かに色々な知識を獲得することは必要なことではありますし、大事なことではあります。しかし、それがすべてになってしまってはいないか、そして、子どもたちに必要以上の過度な負担を強いてはいないか、不安に思いました。かく言う私も、中高生の頃は色々な知識を詰め込むことに躍起になり、どちらかと言えば勉強が苦でしたが、大学生になって知識を獲得するだけでなく、それを使って新しいことを生み出していくような勉強、研究をするようになって、本当に楽しくなり、世界が広がりました。
  願わくは、今の教育が知識詰め込み型の教育ではなくて、そうぞう力(想像力、創造力=色々なことを思い描いていく力、そして色々なものを創り出していく力)を養うものとなっていきますように。子どもたちに梅のように育ってほしい、未知の領域、あるいは逆境を切り開いて真理を初めとした色々なものを花開かせていく、そのような才能を養い育てることに関心を持ってほしいと願って今日の私の話を終わります。
  祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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