2021年 9月 26日(日) 聖霊降臨節 第 19主日・礼拝説教
 

「宗教は自分勝手であってはならない」
 マタイによる福音書 5章 13〜16節  
北村 智史

  よく髪の毛を切りに床屋さんなどに行くと、牧師ということで珍しがられます。そういう時はたいてい、「え〜、初めて出会いました」というところから、「平日は何をしてるんですか」等、色々質問攻めにされることが多いのですが、「普段はこんなことをしているんですよ。あんなことをしているんですよ」とお答えしますと、よく「牧師さんって忙しいんですね」と意外がられます。世間一般では、牧師というと日曜日の礼拝以外はごろごろしているというイメージなのでしょうか。しかし、実際は平日も聖書研究会の準備や説教の準備、教会の様々な雑務に追われ、そこに教区や教団の仕事、NCCの仕事、同宗連の仕事といったように教会外の仕事も加わってくるものですから、結構忙しいのが現実です。幼稚園などの付帯施設のある教会の牧師さんの場合だと、そうした仕事もそこに加わってくるものですから、寝る時間も削って仕事に励む人も稀ではありません。そうした意味では、これほど世間一般のイメージと実際がかけ離れている職業も珍しいと思うのです。私自身は、牧師というのはかなり忙しい部類の職業だと感じています。
  ただ、牧師という職業は己の裁量に委ねられている部分もかなり多くて、教会内、あるいは付帯施設の仕事はどうしようもありませんが、それ以外の仕事は自分でその量を調整しやすいものだと私は思うのです。忙しいのが嫌だという人は教区、教団、NCC、同宗連など、そうした教会外の仕事を全部断ればいい。そうすれば、ずいぶんと楽になります。
  しかし、実際はそうした人は稀で、皆、何がしかの仕事を引き受けては忙しくしている現実が牧師にはあります。ではなぜ、そのようにあえて自分で忙しくするのか。教会の仕事だけしていれば楽なのに、そうではなく、私の場合だと人権、平和に関わる奉仕は、たとえ仕事に追われることになったとしても引き受けるのか。それは、やはり信念があるからだと思います。イエス・キリストに従う者として、やはりそれはしなければならないという思いが強くあるからだと思うのです。そして、今日取り上げさせていただいた聖書個所、マタイによる福音書5:13〜16は、その信念のもとになるイエス様の御言葉に他なりません。
  この中で、イエス様はこのように語っておられます。「あなたがたは地の塩であ」り、また「世の光である」と。イエス様に従う者は塩のように周囲に影響を及ぼし、光のように周りを照らす、そのような存在でなくてはならないと仰るのです。それは、神様の御心とは程遠いこの世界のただ中にあって、自らの言葉と行いで神様の愛と福音とを光り輝かせなさい、そして、この世界を神様の御心に沿うものへと変えていきなさいということでしょう。イエス様のこの御言葉があるからこそ、私たちは教会の奉仕や伝道を行うのはもちろんのこと、さらには社会に対する働きかけも豊かに行って、この世界に広く宣教の業を行っていくのです。
  とりわけ、今の日本の社会では、今申し上げた宗教の社会に対する働きかけと言いますか、宗教の社会貢献というものが、私たちにとって非常に重要になっているのではないでしょうか。
  1995年のオウム真理教事件や2001年の9・11事件以降、「カルト」や「ファンダメンタリズム」という言葉が、宗教の暴力や過激さを象徴するものとしてしばしばマス・メディアに登場するようになりました。そのせいで、今の日本社会では、特定の宗教を持たない一般市民は宗教一般に接すること、また巻き込まれることを忌み嫌う傾向にあると私は思うのです。
  実際、私の知り合いの牧師で婚活をされて、そして今の奥様と結婚された人がいるのですが、その人がこんな経験を語っておられました。婚活をなさる時にまず結婚相談所にプロフィール登録をされたそうなのですが、そこに宗教の有無を書く欄があって、宗教有りと書くと、相手にお見合いを申し込んだ入り口の段階で拒絶されることが多々あったというのです。宗教を持った人はNG。プロフィールにもそう書く人が多かったとのことでした。
  また、いつだったかテレビを見ていましたら、がんで若くして娘を残して亡くなられた方の手記が公表されていまして、そこには「娘が将来こういう風に生きていってくれたら嬉しい」というメッセージが記されていたのですが、そこに「宗教はNG。絶対ダメ」という文言が記されていました。
  こうしたことを見聞きするにつけ、宗教というと「カルト」、「危ないもの」、「自分も家族も不幸にする」、そんなイメージが世間一般では根強いように思うのです。そのような中にあって、もしも宗教が自分たちの悟りや救いを追求することのみに心を砕き、殻に閉じこもってしまうなら、世間のこうした風潮は一層加速していくのではないでしょうか。
  無論、私は日本キリスト教団の中に、社会派、教会派という過去の古い対立の構図に未だに囚われて、教会が社会問題に関わることを疑問視する、あるいは否定する、そういう人々が決して少なくない数いることを承知しています。そんな風に社会問題に力を注いでいるから教勢が低下するのだ。教会の本義は伝道だ。余計なことはせずに伝道だけにすべての力を注ぐべきなのだ。そうした人々はそう主張します。しかし、私は言いたい。そのようにして宗教の社会貢献を蔑ろにするならば、その伝道そのものも危うくされてしまうと。宗教に対する偏見を払拭できず、社会的な影響力も失って、教勢はますます低下していくことでしょう。
  宗教学者の島薗進先生は、これからの「宗教は『自分勝手』であってはならない」と主張しておられます。「道を求める者にとって『社会』や『一般市民』はよそ者であってよいのか。自分たちの『悟り』や『救い』を追求する宗教は、他者のニーズに応じるべきものでもある」。そのように主張しておられます。その通りだと思います。宗教、また宗教者は自分たちの悟りや救いだけに関心を持つようではいけないし、個人の内面、心の問題のみを扱っていればそれでよいというものでもない。また教勢の拡大という自分たちの都合だけを考えていれば良いというものでもないのです。
  宗教学者、社会学者の稲場圭信先生は『社会貢献する宗教』という著書の中で、「宗教の社会貢献」について次のように定義してします。「宗教者、宗教団体、あるいは宗教と関連する文化や思想などが、社会の様々な領域における問題の解決に寄与したり、人々の生活の質の維持・向上に寄与したりすること」。こうした社会貢献の働きを、私たち、ますます活発なものにしていきましょう。私たちが生きているこの世界、そこに存在しているたくさんの神様の御心に沿わない現実のただ中で、他の宗教とも連携し、社会貢献を豊かに為して、「地の塩、世の光」としての使命を豊かに果たしていきたい。そして、社会における宗教のイメージを根底から覆していきたいと願います。
       祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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