2021年 10月 10日(日) 聖霊降臨節 第 21主日・礼拝説教
 

「狂う善悪の判断」
 創世記 3章 1〜7節  
北村 智史

 今日は10月第二主日ということで、神学校日の礼拝を神様にお捧げしています。この日は伝道献身者養成のための神学校と、そこで学び献身を志す神学生のために祈る日となっています。私事で恐縮ですが、毎年この日になると、同志社大学の神学部で学んだ日々を思い出します。仲間と共に献身者を志し、神学を学んだ充実した日々でした。当時の仲間とは今も繋がっていて、支え合っています。今の学生たちは、そんな充実した日々を過ごすことができているでしょうか。新型コロナのために、神学校での学びや交わりにも大きな影響が出ているのではないかと心配いたします。今日はぜひとも、神学校、神学生のために祈りを合わせていただければ幸いです。
  さて、そんな今日は聖書の中から創世記の3章を取り上げさせていただきました。アダムとエバの堕罪の物語です。これは歴史的な事実、「今から大昔にこんな罪の発端があったんだよ」ということを記した物語というよりは、むしろ私たち人間の罪の本質について語ろうとした物語になっていると言うことができるでしょう。
 この物語に登場するアダムとエバは人間の原型(プロトタイプ)となっており、アダムとエバが犯す罪も、私たちすべての人間に共通する原型(プロトタイプ)的な経験となっています。創世記3章の中でアダムとエバが犯した罪は、神様から「取って食べるな」と言われていた木から実を取って食べてしまった、つまり神様の御心に従おうとして従いえなかった、そんな罪だったわけですが、この神様の御心に従おうとして従いえないという罪は私たち人間の誰もが持っている罪です。私たちの誰もが、今の生活の中でしばしばアダムとなり、エバとなる経験を味わいます。その意味で、創世記3章の物語は、人間すべてに共通する罪の本質について語る物語になっていると言うことができるのです。
  先程、私は創世記3章が語る罪の本質について、それは神様の御心に従おうとして従いえない、そのような性質だということを申し上げましたが、この物語をさらに詳しく見ていくと、さらに人間が持つ色々な罪の性質が明らかになってきます。その一つとして今日は3:1〜7を見ていきたいのですが、ここには蛇に唆されてアダムとエバが善悪の知識の木の実を食べてしまう様子が描かれています。このようにして人間は知識を得、善悪を知る者となったと言うのです。では、なぜそれが罪なのでしょうか。神様の命令に背いたというのはいけないことだと思いますが、それによって人間が知識を得、善悪を知る者となれたのであれば、結果オーライのような気もします。しかし、神様はアダムとエバの行為を大きな罪としてお咎めになります。それはなぜでしょうか。キーポイントは「神様と人間との関係」です。
  アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べる前までは、人間は事柄の善悪を神様に伺い、それに従う者であったわけです。しかし、この実を食べることによって、人間は神様を離れて勝手に物事の善悪を判断し、行動するものとなってしまいます。すると、神様と人間との関係が破綻してしまう、正しいものではなくなってしまうわけです。だからこそ、アダムとエバの行為は罪とされたわけです。このように、人間が被造物としての本来のあり方から転落してしまっている姿を聖書では罪と呼びます。
  さて、聖書はこのようにして、創世記3:1〜7の物語を通して、以後人間は罪を抱えた存在になった、神様との関係を破綻させた存在になってしまったということを語ります。そうして、神様を離れて勝手に物事の善悪を判断し、結果神様の御心と離れたことをしてしまう私たち人間の罪の本質を物語るのです。
  このことに関連して、今は亡くなられた元ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが、その著書の中で「人間は善しか選ばない」ということを語っておられました。人間は善しか選ばない。私たちの社会には実際に殺人や強盗、万引きといった悪が横行しているが、それはそうした行為が善であるとその場では考えられてしまうからだと言うのです。
  実際、パウロが教会の人々を迫害したのは、それが神様のため、すなわち善であると考えていたからでしょう。およそ600万人のユダヤ人を虐殺したホロコーストでも、ナチス・ドイツは自らの行いが善であると信じていたはずです。自らの行いが悪と思って悪を行う人はいません。そんなことを言えば、「悪いと知りつつ金を盗んでしまった」というような人はどうなんだという声が聞こえてきそうですが、そうした人でも、「貧困から抜け出すためには仕方がない」とかなんとか言って、結局と言いますか、最終的には金を盗むその行いを、その場では止むを得ない最善の行為と判断するからそうした犯罪を行ってしまうのです。
  こうしたことを思えば、人間の善悪の判断というものはまことに頼りないことが良く分かります。神様を離れては、すなわち神様によって魂を照らしていただかなければ、私たちはまことに正しく善悪の判断を行うことができません。
 先程の渡辺和子さんは、「教育の重要な役割は、知識の詰め込みではなくて、子どもたちに、一時的、衝動的善、つまり自分の欲望を抑えてでも、彼らを将来的に幸せにし、自由に導く真の善が選べる人間になるように育ててゆくことにあります。人間はとかく、追いつめられると、目先の善に走りがちです。だから私たちは常日頃、心にゆとりを持ち、物事に優先順位をつけながら生きてゆく判断と意志の訓練をすることが大切なのです」と語っておられます。
 しかし、私は思います。結局のところ人間の力に依り頼む限り、善悪の判断ミスは避けられないだろうと。自分で勝手に善悪を判断できるとは思い上がらないで、いつも神様を心の中に置き、その神様に魂を照らしていただくことを願い求める謙虚な姿勢が、私たちを幸せと自由に導いてくれる真の善を選んでいく上で一番大切なことではないでしょうか。
  アダムとエバの堕罪の出来事によって破綻した神様と人間との関係は、その後、イエス・キリストの十字架の御業を通して和解に導かれたと聖書は語ります。神様からの一方的な赦しが与えられた。であるならば、私たちもその恵みに応えて、神様と私たちとの関係を堕罪の出来事以前の状態に戻していかなければならないはずです。神様を離れて、勝手に物事の善悪を判断するのではなくて、いつも神様を心の中に置き、その神様に私たちを幸せと自由に導いてくれる真の善を伺っていく、そのような在り方を皆で一緒に志していきましょう。どれほどの知識を持っていたとしても、神様に依り頼まなければ、すなわち神様に魂を照らしていただかなければ、私たちは善を行うことはできないのだというこの事実を、私たち、神様の使信として、人間の力に思い上がるこの世界にどこまでも広く宣べ伝えていきたいと願います。
         祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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