2021年 10月 24日(日) 降誕前 第 9主日・礼拝説教
 

「人間の側の責任」
  マルコによる福音書 4章 26〜29節  
北村 智史

 今日、10月24日は「国連の日」です。この「国連の日」というのは、国際連合が定める国際デーの一つで、1945年のこの日に国際連合憲章が発効して国際連合が正式に発足したことを記念する日に他なりません。思えば、二度の世界大戦の反省に立ち、再び世界のどこにも戦争を起こさせないとして、「国際平和」、「友好」、「人権」の維持、発展、協力を目的として発足した国連でしたが、その後も世界では至る所で戦争や紛争が生じました。これらを引き起こす人間の罪を思わされます。いつまで人間は、こうした醜い悲惨な争いを続けるのでしょうか。この「国連の日」に世界の現状を見渡せば見渡すほど、「神の国」はいつ来るのかと考えさせられます。そして、今日はこの「神の国」に関わるお話をしていきたいと考えています。
  さて、先ほどお読みしました聖書個所は、マルコによる福音書4:26〜29です。マルコによる福音書では4:1〜34にかけて、イエス様のたとえをまとめたたとえ集が収められています。その主題は、「神の国」に他なりません。マルコによる福音書1:15で、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われましたが、その「神の国」の秘密がここで打ち明けられているのです。
 その中でも今日の聖書個所は、イエス様が「成長する種」にたとえて「神の国」の秘密を打ち明けられた個所です。イエス様はこのたとえを通して、種が地に蒔かれると土が知らない間にひとりでに、しかも確実に実を結ばせるように、「神の国」も人間の関与なしに、神御自身によって必ず実現されるとお教えになったのでした。
  イエス様がこのようなことをお教えになったのには、当時の社会の特殊な事情がありました。当時は「熱心党」と呼ばれる過激派グループが「神の国」を来らせようと、暴力による革命を志して事件を頻繁に起こしていましたし、ファリサイ派の人々などが「こういう風にしなければ神の国はやって来ない」と主張して、厳格な律法遵守を人々に課して人々を苦しめていました。イエス様はこうした自分の力で神の国を来らせようとする努力に反対し、そんな努力によらずとも、神様は必ず「神の国」を成就されると教えて、こうした方法によらず、神様が御心を成就されるのをひたすら待ち望むことをお教えになったのです。「神の国」はそれ自体で何の助けも借りずに成長していくものであり、人間はそれがどのようにしてであるかは理解できない。神様のご支配は主権的意志によるものであり、人間の干渉しえないところである。イエス様はこのようにして、当時問題のあった自分の力で神の国を地上に来らせようとする試みを否定されました。「御国を来らせたまえ」という主の祈りにあるごとく、「神の国」に関しては神様にすべてを委ねることを弟子たちにお教えになったのです。
  さて、問題はこうしたイエス様の教えを、現代の私たちがどのように受け止めたらよいのかということでしょう。このことについて考える時に大切なのは、イエス様がこのようにお教えになったのは、当時の特殊な事情を考慮してのことだったということを弁えておくことだと私は思います。そのことを弁えずに、イエス様がこのようにお教えになったのだから、人間は「神の国」に対して何の責任も負っていないのだ、ただ「神の国」が神様から与えられるのを待っていればよいのだと解釈すると、まずいことになるでしょう。
  実際、そのように考えるキリスト者はたくさんいます。特に差別の問題に携わっていると、必ずそうした考え方に出くわすのです。「人間がいくら努力しても、差別はなくならないよ。人間ができるのは、神様が差別のない『神の国』を与えてくれるのをただ待つだけなんだ。そのことを信じて祈ってさえいれば、また礼拝さえしていれば、キリスト者の社会的な責任は十分果たしたと言えるんだ。無駄なことは止めて、礼拝に集中しよう。伝道に集中しよう」。かつての社会派・教会派という古い対立の構図に未だに囚われて教会派の主張を強固に展開する、つまり教会が社会問題に関わることを強く否定するキリスト者に多い意見です。このように差別の問題に関して人間の努力を一切否定する考え方に、私はこれまで何度出くわしてきたことでしょう。
  私は差別の問題に携わるのは、「御国を来らせたまえ」と祈るキリスト者としての当然の責務だと考えています。キリスト者は「神の国」がこの地に成るように祈るだけでなく、そのために行動していかなければならない。そう信じているのです。
 こうした私の考えは、一見すると、自分の力で神の国を来らせようとする努力に反対した今日の聖書個所の中でのイエス様の御言葉と矛盾するように感じられるかもしれません。先程の、「差別の問題に関しては人間がいくら努力しても無駄なんだ。神様から『神の国』が与えられるのをただ祈って待っていればいいんだ」という考え方の方がイエス様の御言葉と合うように感じられるのかもしれません。
 しかし、忘れてならないのは、あくまでもイエス様が自分の力で神の国を来らせようとする努力に反対したのは、「熱心党」による暴力革命やファリサイ派の人々の厳格な律法遵守など、問題のあった人間の試みを念頭に置いてのことだったということです。従って、これを指して、イエス様は「神の国」の実現に関して、人間の側の努力や責任を一切否定されたと考えるのは早計だと言えるでしょう。
 イエス様は聖書の別の個所で、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と語っておられます。義と平和のために苦心する人々が報われ、「神の子」となる資格が与えられ、「神の国」が与えられる、その日が御自分の到来によってもうすぐやって来る。そのように当時の人々に呼び掛けられただけでなく、だから、義と平和のために苦心する人々となれと今を生きる私たちに訴えておられるのです。こうしたイエス様の御言葉こそは、イエス様が決して「神の国」の実現に関して、人間の側の努力や責任を蔑ろにはされなかったということを示すものではないでしょうか。
  差別の問題に関わるようになって知らされたのは、人間の努力が決して無駄ではないということです。ある時、「結局のところ、差別はなくならないのではないか」という意見に対して、部落解放センターの前運営委員長の東谷誠さんがこのように仰っていました。「でも、僕らが子どもの頃と比べたら、社会は大きく変わったよ」。およそ半世紀にわたって差別と闘い続けてこられた東谷さんのこの言葉には、非常に重いものがあると私は思います。私たちの社会にはまだまだ差別があり、課題も山積みです。しかし、声を上げ、差別と闘い続けてきた様々な運動の結果、社会が変わってきたことも確かな事実でしょう。差別との闘いは決して無駄ではない。差別のない「神の国」、その完成は神様の手に委ねなければならないのかもしれませんが、私たちは皆で力を合わせて、今の社会を「神の国」へと近づけていくことができるはずです。また、そうしなければならないことを、東谷さんの言葉は教えてくれているのではないでしょうか。
  今日の聖書個所の28節を読めば、「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実」とありまして、種が実を結ぶまでに、すなわち神の国が到来するまでに諸段階があることを知らされます。「神の国」は神様のご遺志によって必ず成し遂げられる。そのことを強く信じて、私たちもこの世界を「神の国」へと近づけていく努力をしながら、「神の国」到来までの諸段階を駆け上がっていこう。こうしたメッセージを、私は今日の聖書個所から受け取りたいと思います。
  かつてアウグスティヌスはこのような言葉を語りました。「神なくして我ら為しえず、我らなくして神為さず」と。神様は他でもない私たちを用いて御自分の「神の国」を成し遂げたいと願っておられます。私たちは神様と一緒ならば、この地を「神の国」に変えていくことができるでしょう。願わくは、神様が私たちに与えられている賜物を何倍にも増し加えてくださいますように。神様にこの身を委ね、皆で力を合わせて、「神の国」到来のために人間の側の責任を果たしていきたいと存じます。
               お祈りをいたします。  ――以下、祈祷――

 
 
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