2021年 12月 19日(日) 待降節 第 4主日・クリスマス礼拝説教
 

「お宿り下さい、イエス様」
ルカによる福音書 2章 1〜7節 
北村 智史

 今日は待ちに待ったクリスマス礼拝の日です。振り返ってみれば、今年度は新型コロナのために、4月25日〜9月26日まで会堂での礼拝を休止し、それぞれのご家庭で礼拝を守っていただきました。you tubeで礼拝の動画を配信し、それをご覧いただきながら、それぞれのご家庭で礼拝を守っていただくという期間がおよそ5カ月も続いたわけです。その一つ一つの礼拝を神様が守り、祝福してくださったことを感謝いたします。10月からはようやく会堂での礼拝を再開することができ、愛する信仰の家族と一緒に神様を賛美することのできる喜びを噛み締めることができました。今日も、礼拝を午前と午後の2回に分けて人数制限をしていますが、待ちに待ったクリスマスの礼拝を、この会堂で愛する信仰の家族と共に行えるその恵みを神様に感謝いたします。願わくは神様がこの一日を祝福し、世界中のすべての人々をその温かな愛で包んでくださいますように、そして、世界中のすべての人々が御子イエス・キリストの御降誕の恵みに与ることができますようお祈りしている次第です。
  さて、今日がクリスマスであるということは既に申し上げましたが、ではこのクリスマスがどんな日であるか、皆さんご存じでしょうか。「馬鹿にしないでよ」という声が聞こえてきそうですが、しかし最近は特にクリスマスと言うと、「恋人と過ごす日」とか、「サンタさんが来る日」とか、そういう印象ばかり強くなっていて、肝心の本来の意味が薄れてきているのを感じますので、あえてこのように尋ねさせていただきました。
 クリスマスとは、イエス様のお誕生日です。今からおよそ2000年前に、暗闇のようなこの世界に救い主イエス様がお生まれになった。そのことを記念する日です。では、イエス様は具体的にどのようにしてお生まれになったのか。そのことが、先ほどお読みいただきました聖書個所、ルカによる福音書2:1〜7に詳しく記されていました。改めて詳しく見ていきましょう。
  実は、イエス様はユダヤという地方にお生まれになったのですが、当時このユダヤはローマ帝国というものすごく強い国に支配されていました。そして、そのローマの皇帝だったアウグストゥスという人が、このユダヤの人々から税金を取ろうとしたのです。でも、税金を取ろうと思ったら、どこに誰が住んでいるかっていうのをきちんと把握しておかなければなりません。それで、このアウグストゥスは、「皆自分の町に帰って『私はここの住民です』という登録をしなさい」、そんな命令を全領土の住民に出しました。それで、イエス様の両親であるマリアとヨセフは、その時にいたナザレという所から、故郷であるベツレヘムという所に帰らないといけなくなりました。
  でも、マリアとヨセフにしてみれば、これはとても迷惑な話です。マリアはもうすぐ子どもが生まれる、そんな状態でした。それなのに、ナザレから100kmも離れたものすごく遠いベツレヘムまで旅をしろと言われるわけです。昔は今と違って自動車やら、電車やら、そんな便利なものはありません。歩いて旅をしないといけませんでしたし、そういう旅は山賊や強盗もいたからものすごく危険でした。そんな無茶な旅を、二人はただ税金を取られるためだけにさせられたわけです。
  そんな理不尽で過酷な旅をしている途中で、マリアは陣痛が始まり、「もうイエス様が生まれる」という状態になりました。そこで二人は急いで宿屋に行きます。しかし、そんな状態なのに、誰も手を差し伸べてくれません。「お願いです。泊めてください」。ヨセフがそう言っても、宿屋の主人は「ダメダメ、空いてる部屋なんかないよ」の一点張り。他の宿泊客に頼んでも、「ダメダメ、一緒に泊まるなんてとんでもない。よそへ行きな」。そんな風に言われてしまいました。結局、二人は宿屋に泊まる場所を見つけることができず、マリアは仕方なしに家畜小屋の中でイエス様を出産し、飼い葉桶の中に寝かせたのです。
  これが、今日の聖書個所のお話です。救い主イエス・キリストの御降誕。それは確かに喜びの出来事に違いありませんが、その出来事そのものは、今日の聖書個所を読めばわかるように明るい出来事として起こったのではなく、むしろ人々の罪溢れるただ中の暗い出来事として起こったのでした。身重の夫婦が、権力者の命令で無理やり旅をさせられるなんて、ちっともいい話ではありません。疲れ果てている人、命の危機にある人々が休む部屋もなく、宿に入ることさえ断られるなんて、ちっともいい話ではありません。そして、赤ん坊が家畜小屋で生まれる、そして動物の餌箱に寝かされるなんていうのも、ちっともいい話ではないのです。
 権力者による圧迫、人々の愛の欠如、冷たい無関心、そうした人間の罪が深く渦巻く悲惨な現実のただ中に、イエス様はお生まれになりました。実にイエス様は、私たちの罪が渦巻くこの世界のただ中に救いをもたらす希望の光として、お生まれになったのです。イエス・キリストの御降誕。その出来事を見つめれば見つめるほど、私たちはイエス・キリストの「下降される神」、「低きに下られる神」という御性質が良く分かって来ると思います。
 人となられた神様、それも家畜小屋の中でひっそりとお生まれになった神様、イエス・キリストは、私たちの遥か彼方、雲の上の天国からこのめちゃくちゃな世界を冷たく見下ろしている、そんなお方では決してありません。イエス様は降りてくる方です。一番低い所、誰も手の届かないほど低い場所に落ちて来てくれたお方です。そして最後は妬まれ、大切な人々に裏切られ、最も悲惨な姿で十字架にかけられ、命を奪われることによってすべての人々の救いを成し遂げられました。私たちはそのようなイエス様の姿にこそ神を見るのです。
  このイエス様は私たちが病で絶望している時、一緒に病気になっておられます。私たちが馬鹿にされ、軽蔑されるような時、イエス様も一緒にあざけられておられます。誰にも絶対理解されない絶望の中に私たちがいる時、ズタズタでボロボロにされたイエス様だけは私たちの痛みを理解しておられます。実にイエス様はインマヌエルの神様で、私たちが低きにいる時に低きに下り、私たちの中に宿って共に苦しみ、支えてくださるのです。
  しかし、私たちは様々な思いで胸を一杯にして、私たちのもとにやって来られるイエス様に気が付きません。あるいは気が付いても、心の中に受け入れません。結果、イエス様は今も打ち捨てられたまま放っておかれています。生まれた時も、十字架に至るまでの生涯においても、宿る所のなかったイエス様は、今も私たちの心に宿りたいと願いながらもそれが叶わず、打ち捨てられているのです。
  イエス様がお生まれになったことを記念するこのクリスマス、「お宿りください、イエス様」、このように申し上げて、イエス様を喜んで心の中にお迎えしましょう。パンデミック、差別、分断と、今も暗さが続くこの世の中ですが、共に苦しみ、支えてくださるイエス様と一緒に夜明けの道を力強く歩んで参りたいと存じます。

              祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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