2021年 12月 24日(金) クリスマス・イヴ燭火礼拝説教
 

「キリストの光を普く世界に」
ルカによる福音書 2章 1〜7節、8〜20節
マタイによる福音書 2章 1〜12節
 
北村 智史

  ただ今、私たち、クリスマス・イヴの礼拝を神様にお捧げしています。この「クリスマス・イヴ」というのは、「クリスマス・イーヴニング」という意味ですが、皆さんはその意味するところを正しく理解しておられるでしょうか。おそらく多くの人々が、「クリスマス・イヴ」というのを「クリスマスの前日」のことと勘違いして、「クリスマス・イーヴニング」とは「クリスマスの前日の夕方」のことを意味しているのだと誤解しておられると思うのです。
  今でこそ、一日は午前0時〜午後12時までと定められていますが、昔、ユダヤ暦では一日の始まりは日没、夕方からとされていました。つまり、夕方から次の日の夕方までを一日と数えたのです。教会暦はこのユダヤ暦を継承していますので、12月24日の夕方から25日の夕方までがクリスマスということになります。つまり、「クリスマス・イヴ」、「クリスマス・イーヴニング」というのは、「クリスマスの前日の夕方」ではなくて、「クリスマス当日の夕方」、「クリスマスが始まる夕方」のことを意味しているのです。
  ですので、私たち、「いよいよ明日にクリスマスを迎える」という心持ちでこの礼拝に参加するのではなく、「とうとうクリスマスがやって来た!」、そんな気持ちで喜びに溢れてこの礼拝に参加したいと願います。今夜は、御子イエス・キリストの御降誕の恵みを共に喜び祝いましょう。
  さて、毎年クリスマスの燭火礼拝には、普段なかなか礼拝に来ることができない方が特別に出席なさいます。教会員の方がお友達を誘って来られたり、遠隔地にお住まいで毎週は礼拝に来れないという方が、特別にやって来られたり、まったく教会に行ったことがないという方が、「せっかくクリスマスだから、教会というものを覗いてみようか」と、普段の敷居の高さを乗り越えてやって来られたりするわけですが、それは教会にとってこの上なく大きな喜びです。と同時に、反省を突き付けられる機会でもあると私は思います。
  私たちは普段、どれほどこれらの方々のことを覚えて礼拝に臨んできたでしょうか。私たちはともすれば、普段礼拝にやってくる人たちだけのサロンのようになってしまってはいないだろうか、反省させられます。
  今日は聖書の中から、有名なクリスマスの物語を3つ取り上げさせていただきましたが、これらを読みますと、生まれたばかりのイエス様に会うように招かれたのは、羊飼いや占星術の学者といった、当時のユダヤ人からすれば「外の人々」だったことが良く分かります。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」だから、生まれたばかりのイエス様に会うのは当然祭司長や律法学者といったゴリゴリの正統派のユダヤ人というわけではないのです。
  当時、羊飼いという職業の人々は、その仕事の性格上、安息日を初めとした律法を守りたくても守ることができなかったために、一般のユダヤ人たちから穢れた人々と見なされていました。社会から疎外された、アウトカーストな人々です。占星術の学者たちも同様です。彼らは異邦人であり、ユダヤ人からは救われない罪人と考えられて差別されていました。
  そうした「外の人々」が優先的にイエス様に会うのに招かれたという意味を、私たちは考えなければなりません。神様の愛はどこまでも広がっていきます。ゴリゴリの正統派のユダヤ人だけを愛されるのではありません。イエス・キリストはユダヤ人だけでなく、この世のすべての人々の救い主、メシアとしてクリスマスにお生まれになりました。であるならば、私たち教会もまた自らの群れを仲間内だけのサロンのようにすることは許されません。「外の人々」をどこまでも招いていかなければならないのです。
  また、ルカによる福音書2:1〜7に記されているイエス様ご降誕の場面を読めば、イエス様が家畜小屋の飼い葉おけの中という、この世の最も貧しい現実のただ中にお生まれになったことが良く分かります。イエス様はこの世の暗闇の現実のただ中に、その光として神様に遣わされてやって来られたのでした。私たちもまたイエス様に従う者として、教会に閉じこもるのではなく、この世の現実のただ中に遣わされて行かなければなりません。
  このクリスマス、「外の人々」を招くということと、この世の現実のただ中に遣わされていくということを私たちの教会の課題としましょう。そうしなければ、私たち教会と社会にある隔ての壁は取り除かれません。
 先日、ある方にこんなことを言われたのを思い出します。「え、クリスマスに教会に行ってもいいのですか?教会って、クリスチャンしか入れないのかと思っていました!」私たちが思う以上に、世間の人々にとって教会は社会から切り離された敷居の高い聖域、サロンと考えられているみたいです。そのように思い込ませたのは、紛れもない私たち教会の責任でしょう。私たち教会が世の光として、きちんと社会に関わって来なかったし、社会にメッセージを届けてこなかったからだと思うのです。
  そのような中にあって、私たち、積極的に「外の人々」を招き、この世の現実のただ中に遣わされていきたい、そのようにして社会との交流を大切にしていきたいと願います。そうして、「私たちの」救い主が他でもない「あなたの」救い主でもあることを宣べ伝えていきたいと願います。この府中の地から、キリストの光を普く世界に灯していきましょう。そうして、神様の愛の輪をどこまでも広げていきたいと願います。

              祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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