2021年 12月 26日(日) 降誕節 第 1主日礼拝説教
 

「一人ひとり特別扱い」
ルカによる福音書 2章 8〜20節 
北村 智史

 先週はクリスマス礼拝を神様にお捧げし、24日の夕方にはクリスマス燭火礼拝を皆で守りました。今年もクリスマスの一連の行事が無事に終わり、ほっとしています。しかし、クリスマスシーズンというものは、厳密にはアドヴェントから1月6日の公現日まで続いていくものであり、12月25日が過ぎたからと言って突然終わってしまうものでは決してありません。ですので、25日を過ぎた今も、イエス・キリストご降誕の恵みを心に覚えて過ごすことが大切なのは言うまでもありません。
  1月6日の公現日まで特に大切に心に刻みたい聖句が、ヨハネによる福音書3:16です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。これを読むと、神様がイエス様をこの世に生まれさせたその目的が、私たちを一人も滅びさせないで永遠の命の救いに入れるためだったことが良く分かります。クリスマスの出来事、それは神様の愛の現われに他なりません。誰一人お見捨てにならない。神様の目には一人ひとり、すべての人々が救いの対象であり、特別な存在であり、尊いのだ。そのことを、先程の聖句は私たちに教えてくれています。
 願わくはクリスマスのシーズンが終わるまで、私たち、神様のこの愛、その大きな恵みに自分はどのように応えて生きていくのかをしっかり考えながら、年末年始の時を有意義に過ごしていきたいと存じます。
さて、そんな今日は、聖書の中からルカによる福音書2:8〜20を取り上げさせていただきました。有名なクリスマスの降誕物語です。この中で、神様が天使を通して、羊飼いをイエス・キリストとの出会いに初めに招かれたということは、非常に象徴的な意味を持っていると私は思います。
 ここで、羊飼いという職業について考えてみますと、皆さんはこの「羊飼い」という言葉に、どのようなイメージを持たれるでしょうか。のどかで平和的なイメージでしょうか。あるいは心を砕きながら人々を導いていってくれる、そうした指導者のような人物を表す言葉といったイメージでしょうか。たしかに詩編23:1で、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と、神様のことが「羊飼い」にたとえられていますように、「羊飼い」は羊を養い、守り、導くということで、イスラエルの人々だけでなく、ギリシャの古典においても、人々を導く哲学者や政治家、神様などを、このように「羊飼い」、「牧者」といった言葉で言い表すという習慣は事実としてありました。
 しかし、その一方で、当時のイスラエルの羊飼いの実態というのは、昼夜を分かたぬ、極めて過酷な労働であっただけではなくて、当時の社会における最底辺の職業の一つとされていたのです。ある律法学者はこの羊飼いという仕事を、「父親が息子に決して伝えてはならない職業」、「盗人の仕事」と呼んだとさえ伝えられています。このように羊飼いという仕事が人々に「卑しい仕事」と見なされたその背景には、当時のイスラエルの社会では、動物を飼育するという労働自体が穢れたものとみなされていたこと、彼らが悪霊が住むとされていた「山」や「荒れ野」で移住生活をしていたこと、他人の土地の草を羊に食べさせていたこと、そして何よりもその仕事の性格上、安息日を初めとした律法を守りたくても守ることができなかったことなどがありました。また、彼らのほとんどは、主人の羊の世話をするために雇われた貧しい人々であり、十分な教育も受けられずにいたと言います。このように、当時のイスラエル社会では、羊飼いは信仰的な意味でも経済的な意味でも蔑まれ、忌み嫌われる対象とされてしまっていました。
  ルカによる福音書には、こうした羊飼いのもとに神様が天使を遣わして、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」とお告げになったこと、そして、彼らをイエス・キリストのもとに初めに招かれたということがはっきりと記されています。これらの記述は、当時の羊飼いのように差別や貧困、孤独や不安など、様々な苦しみに苛まれて暮らす、貧しく小さくされた人々にこそ、神様はまず初めに目を注がれ、御自分のもとに、また御自分の救いに招かれるのだということを私たちに証ししてくれているでしょう。クリスマスの出来事とは、私たちの救いのために、家畜小屋の飼い葉桶の中という地上の最も貧しい所に降りて来られた神様が、様々な苦しみの中で貧しく小さくされていた人々にまずその救いの御手を差し伸べられた出来事に他なりません。
  このことに関連して、礼拝学者の越川弘英先生は、ある著書の中で、「旧新約聖書を通じてそこに見出される神の姿は、『特定の立場』をとり『特定の対象』を『偏り愛する神』である」という言葉を語っておられます。実際、ルカによる福音書2:8〜20を読みますと、神様は苦しみ、とりわけ不当な苦しみを受けている人々に優先的に関わりを持たれることが良く分かるでしょう。不当な貧しさ、不当な抑圧、不当な悲惨の中で泣き嘆く者の声を神様はまず聞き届けられるのです。実に神様は、まず小さな者に注目されるお方であり、「貧しい者」、「恐れる者」、「悲しむ者」、「不安の中にある者」、「差別されている者」、「いじめられている者」、そうした「ゆえなくして苦しむ人々」をまず最初に招かれます。そして、イエス様はそうした人々のただ中に、その救いのためにこの世にお生まれになった。これが、今日の「天使と羊飼い」の物語が伝えるメッセージです。
  私たちキリスト者はこの神様、このイエス様に従う者として、いつの時代にあっても様々な苦しみに貧しく小さくされている者の声に率先して耳を傾け、これに寄り添って愛を示していかなければなりません。
  ここで私たちが生きているこの世界を振り返ってみれば、そこでは貧しく小さくされている人々が真っ先に救われる、そんな社会になっているか、大きな疑問を感じます。実は今月の6日に「世界人権宣言73周年記念集会」なる催しがありまして、東京同宗連の委員としてこの集会に参加してきましたが、そこでフォトジャーナリストの安田菜津紀さんから「共生社会の実現に向けて――取材を通して考えたこと」と題して講演を伺いました。難民問題が主なテーマでしたが、最も私の印象に残ったのがロヒンギャ難民のルイン・ティダさんのお話でした。
  ミャンマーではイスラム系少数民族ロヒンギャに対する迫害、弾圧が激しく、70万人を超える人々が隣国バングラデシュなどの難民キャンプに逃れ、過酷な避難生活を強いられていることが国際問題となっていますが、このティダさんもロヒンギャの一人として、壮絶な人生を歩んでこられた方でした。
 幼い頃からミャンマーで差別や偏見に直面し、学校では先生から名前ではなく、「カラー」と呼ばれました。「カラー」というのは、インド系外国人に対する蔑称で、ティダさん曰く、日本で言う「外人」よりももっと酷い言葉だそうです。このように先生が差別的な態度でティダさんに接しますので、当然子どもたちもそれを真似しました。壮絶ないじめを受け、学校の保護者からも「あんな『カラー』と付き合うな」と言われ、友達ができない、そんな毎日でした。
 12歳の時に、先に日本に逃れていた父のもとに、家族ともども逃れて来日。その後、ティダさんは日本の小学校に通うことになります。言葉も分からなければ、文化も全く違う、何もかもが不慣れな環境でした。給食はティダさんたちイスラム教徒が食べられないものが多く、毎日お弁当を持参していました。ご飯とカレーばかりのお弁当だったので、そのうち「茶色いものばっかり食べてるから肌も茶色いんだろ」とからかわれるようになってしまったと言います。そしてその“からかい”は、いじめへとエスカレートしていきました。
 それでも日本の学校で生き抜いていかなければなりません。ティダさんはテレビを見ながら必死に言葉を覚えました。日本の子どもが小中9年間かけて学ぶ内容を、中学3年間で学ばなければならず、努力を重ねたのです。高校在学中の16歳の時に、親が選んだ相手と結婚。現在は日本国籍を取得し、4人の子どもたちの母親として毎日を過ごしています。
  そんなティダさんは、今、一カ月に一度先生と面談をして、給食の中で宗教上、食べられないメニューを確認すると言います。そして、食べられないものが出る日は、そのメニューそっくりのお弁当を作って持たせるそうです。あまり他の子と違うものを食べていると、過去の自分のようにからかわれたりするかもしれないからというのが、その理由です。
  こうしたお話を聞きまして、日本においてもイスラム系少数民族ロヒンギャの方が生きづらくされているその現実を思わされました。「多文化共生と言うならば、学校の給食も様々な宗教に対応しろよ」と思うのですが、そのように言うと決まって言われるのが、「特別扱いはできないから」という言葉だそうです。
  しかし、これは変ではないでしょうか。どんなに困った人がいても、特別の配慮はしない。メジャリティが基準で、マイノリティがそれに合わせることばかり強要される。それが社会正義でしょうか。「特別扱いはできない」と言いますが、本当は「一人ひとりが特別」なのだと私は思います。一人ひとりが代えの効かない唯一無二の尊い存在で、その一人が困っていれば困っているほど特別の愛情を注ぎ、配慮を為すのが本来の社会正義ではないでしょうか。少なくとも、神様の愛、イエス様の愛はそのようなものでした。目の前の人が苦しみの中に置かれていればいるほど、より大きな愛をお注ぎになるのです。
  私たちも神様、イエス様に従う者として、不当な苦しみの中に置かれている人々が真っ先に救われる、そんな社会を実現していかなければなりません。「特別扱いはしないのだ」。そう言って苦しむ者に無関心を決め込む社会は、いつ自分もその無関心の煽りを受けるか分からない社会です。いざ自分がマイノリティの側に置かれた時、あるいは苦しみの中に置かれた時にもきちんとした救済措置が受けられるように、困った人ほどより多くの愛と配慮が注がれる社会を皆で一緒に形作っていきたいと願います。格差がますます広がっていく今の世界のただ中で、様々な苦しみに貧しく小さくされている者の声に率先して耳を傾け、これに寄り添っていく、愛を示していく。そうした考え方を教会として広げていきましょう。富む者ばかりが守られる、あるいはメジャリティばかりが基準に考えられる、そんな社会から、マイノリティ、また貧しく小さくされている人々が優先的に配慮を受けられる、そんな社会へ、皆で一緒に世の中を変えていきたいと願います。

             祈りましょう。  ――以下、祈祷――

 
 
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